前田直躬
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前田 直躬(まえだ なおみ、正徳4年(1714年) - 安永3年(1774年))は江戸時代の人物。加賀八家筆頭前田土佐守家の5代目当主。通称は主税。官位は従五位下土佐守。父は土佐守家4代・前田直堅。子は土佐守家6代・前田直方など。
[編集] 最初の前田土佐守
この家系で土佐守に叙任されたのは彼が最初であり、以後歴代当主の多くがこの官に叙任され直之系前田氏は土佐守家の名で呼ばれることとなった。ちなみに土佐守家の嫡男出仕時の新知2500石という石高も、彼が先例となっている。
[編集] 加賀騒動関連
加賀騒動の一方の主人公である守旧派の首領・前田土佐守とは彼のことである。講談では忠臣とされるが、実際には家格と藩主をも上回る血統を傘に着た門閥領袖にして伝蔵と藩政改革を攻撃した守旧派(因習派)の急先鋒であった。
藩主前田吉徳に対し大槻伝蔵による藩政改革によって既得権を失った加賀八家ら重臣層の中心人物として、専権を振るう伝蔵の排斥を唱え続けたが聞き入れられず、手段を変え次期藩主である嫡男前田宗辰の取り込みを図り、1743年(寛保3年)から翌延享元年まで四度にわたって弾劾文を宗辰に提出し続けた。このため吉徳の(宗辰にも疎んじられた可能性がある)怒りを買って延享元年7月罷免されてしまい、以後吉徳在世中は何も手が出せなかった。1745年(延享2年)6月、吉徳が亡くなると逆襲に転じ、1746年には伝蔵を吉徳毒殺の嫌疑をかけて断罪し蟄居に追い込む。同12月にはこれを流罪とし、これにより藩政改革は完全に破壊されることになった。
が、よほど憎悪が深かったか、寛延元年(1748年)、藩主前田重煕 毒殺未遂事件とこれに関連して浮上した家督問題を理由に伝蔵を切腹させ、大槻一派に対し徹底的な粛清を行いこれを壊滅させている。一説によるとこの暗殺未遂事件の黒幕(ないし共犯者)であるとも言われる。 この一件の黒幕ではないとしても、文人という顔を使って野狐物語など伝蔵を悪人に仕立てた小説の流布に一役買ったことは間違いあるまい。
[編集] 悪家老の素顔
加賀騒動の真相が明らかとなった今日では悪家老として有名であるが、教養高く、河合見風らの文人・学者との交流もある文人でもあり、単なる腐敗堕落した悪家老ではなかった。もっとも高い教養ゆえに守旧派になってしまった可能性は否定できない。 著作には格調高いものばかりでなく蒸し羊羹の製法をまとめた書などというものもあり、苛烈な弾圧の実行者とは思えぬ微笑ましい一面ものぞかせている。
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