北条時房
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北条 時房(ほうじょう ときふさ、安元元年(1175年) - 仁治元年1月24日(1240年2月18日))は鎌倉時代初期の武将。北条時政の三男、北条義時の弟。幼名は五郎、初めの名乗りは時連。官職は相模守。法名は称念。
1189年、三浦義連を烏帽子親に元服し、時連と名乗る。同年、奥州合戦に従軍。1199年に源頼朝が死に、頼家が将軍に就任するとその側近になる。1202年、時房と改名。1203年に頼家が追放されるが、時房はこれに連座せず、北条氏の一門として次第に重きをなすようになる。
1205年、畠山重忠の乱に出陣。1210年、政所別当に就任。1213年、和田合戦に出陣して、和田義盛を討つ。1219年、源実朝が暗殺されると上洛して、摂家将軍となる三寅(藤原頼経)を連れて鎌倉へ帰還。
1221年、承久の乱では、泰時とともに東海道を進軍して上洛。京に留まり、初代六波羅探題となる。1224年に義時が死去すると鎌倉に帰り、同年初代連署に就任する。
[編集] 官職位階履歴
※日付は旧暦
- 1189年(文治5)、元服し、時連と名乗る。(烏帽子親三浦義連の諱一字を賜う。)
- 1202年(建仁2)、諱を時房と改める。
- 1203年(建仁3)、鎌倉幕府の寺社奉行と就る。
- 1205年(元久2)3月18日、主殿助に任官。 4月10日、式部少丞に遷任。 6月、従五位下に叙し、遠江守に転任。 8月9日、駿河守に遷任。
- 1210年(承元4)1月14日、武蔵守に転任。 月日不詳、政所別当と就る。
- 1217年(建保5)12月12日、相模守に遷任。
- 1218年(建保6)10月18日、従五位上に昇叙し、相模守如元。
- 1221年(承久3)6月16日、六波羅探題南方と就る。
- 1224年(貞応3)6月19日、六波羅探題を退任。 6月28日、幕府連署と就る。
- 1234年(天福2)1月26日、従四位下に昇叙。相模守如元。
- 1237年(嘉禎3)1月5日、従四位上に昇叙。相模守如元。 3月4日、修理権大夫を兼任。
- 1238年(嘉禎4)閏2月27日、正四位下に昇叙し、修理権大夫如元。