医師ガシェの肖像
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医師ガシェの肖像(いしがしぇのしょうぞう)とは、1890年6月、死の1ヶ月余り前にフィンセント・ファン・ゴッホによって描かれた絵画。油彩。同名の作品が複数ある。「ガシェ博士の肖像」とのタイトルが付されていることがある。
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[編集] この絵の背景
ゴッホはこの頃、精神病院に幽閉されたトルクァート・タッソを描いたウジェーヌ・ドラクロワの絵のことを考えていた。ポール・ゴーギャンとのモンペリエのファーブル美術館訪問の後、ゴッホは弟テオ・ファン・ゴッホにこの絵のリトグラフが手に入らないか書き送っている。[1]3ヵ月半前、彼はこの絵のことを、彼の描きたい肖像画の例として考えている。「しかし、ドラクロワが試みて描きあげた牢屋のタッソの方がより調和に満ちている。他の多くの絵と同様、本当の人間を表現しているのだ。ああ、肖像画!思想のある肖像画、その中にあるモデルの魂、それこそ実現しなければならないものだと思う。」[2]
[編集] ポール・ガシェについて
モデルとなったポール・ガシェ(1828年~1909年)は、フランス・パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズ在住の精神科医であった。彼は週に数度パリで診察を行っていたが、1890年3月に初めてゴッホの診察をし、健康回復のために彼をオーヴェールに招いた。5月、オーヴェールに着いたゴッホはガシェとその一家と親しくなり、再び創作意欲がよみがえって村の風景や村人たちを描き、ガシェ自身もモデルとなった。7月末に自殺を図ったと思われる大怪我を負って死去するまでの2ヶ月間、ゴッホはこの村で80点ほどの作品を残している。
ガシェは絵画愛好家であり、ポール・セザンヌやカミーユ・ピサロらの友人であり、自らも絵画を描いていた。ガシェの筆による「死の床のファン・ゴッホ」(パリ・オルセー美術館蔵)という作品が残されている。
[編集] それぞれのバージョン
[編集] 第1バージョンの作品
最初のバージョンは弟テオの未亡人ヨハンナが1897年にデンマーク人コレクターに300フランで売った。その後、画商パウル・カッシーラー(Paul Cassirer)に1904年に、ケスラー(Kessler)に同1904年に、さらにドリュエ(Druet)に1910年に売られた。1911年、フランクフルト・アム・マインのシュテーデル美術館が取得し1933年までコレクションとして公開されていた。
1933年、ナチスの政権獲得と退廃芸術糾弾によりこの絵は隠し部屋に仕舞われたが、1937年に退廃芸術狩りを行う宣伝省によって没収された。集められた膨大な印象派や表現主義絵画の中から、ヘルマン・ゲーリングは個人用にこの絵を含む数枚を持ち帰り、すぐにアムステルダムの画商に売った。画商はこれをコレクターのジークフリート・クラマルスキー(Siegfried Kramarsky)に売ったが、彼はナチスを逃れニューヨークへ渡り、この絵はメトロポリタン美術館に寄託され展示されていた。
所有者のクラマルスキー家は、この絵をメットから引き上げ、最終的にオークションにかけることに決めた。1990年5月15日にニューヨークのクリスティーズでの競売で、当時史上最高落札額の8250万ドル(当時のレートで約124億5000万円)で、大昭和製紙名誉会長(当時)の齊藤了英に競り落とされた。
ゴッホの残した肖像画の中でも傑作の一つに数えられるが、この高額落札によってさらに有名な作品となった。斎藤は「自分が死んだら棺桶にいれる」と語ったとされ、海外などから非難を受けた。斎藤は後にこの発言を「この絵に対する情熱を表現した言葉のあや」と釈明し、死後は日本政府か美術館に寄付すると説明した。だが斎藤の購入後からは一般公開されることなく、寄付されることもなかった。斎藤の死後、この絵はひそかに売却されたといわれ行方不明となった。
その後明らかになったところによれば、1997年に斎藤家より売却を受けたサザビーズが非公開でオーストリア出身のアメリカのヘッジファンド投資家ウォルフガング・フロットルに(一説に9000万ドルで)売却したが、2007年1月、フロットルは円取引失敗によって10億ドル以上の負債を出す破産をし、サザビーズがこの絵を引き取ったことで所在が明らかになった。サザビーズがこの作品を今後どのように取り扱うのか注目される。
[編集] 第2バージョンの作品
最初の作品をゴッホが複製したものといわれる。この作品はゴッホからガシェに贈られており、現在はオルセー美術館に収蔵されている。