十河一存
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
十河 一存(そごう かずまさ、天文元年(1532年) - 永禄4年3月18日(1561年4月2日))は三好元長の四男で三好長慶、三好義賢、安宅冬康の弟。野口冬長の兄。子に三好義継。養子に十河存保。
生まれは阿波勝瑞城。兄の命により讃岐十河城主の十河景滋の養子となる。
一存は武勇に優れ、1549年の宿敵・三好政長討伐戦や1560年の畠山高政との戦いのいずれにも大勝し、功を挙げ、兄・長慶を軍事的によく補佐した。しかし1561年、有馬温泉にて松永久秀と湯治中に突然死したという。この死は病死説もあるが、一存は久秀と不仲であり、一存が死んだときに久秀が傍にいたことから、暗殺説の疑惑も囁かれている。一説には、一存は落馬が原因で死んだとも言われている(これを久秀が自分の言う事を一存が聞かない事を承知の上で、わざと「有馬温泉の山道は馬での通行は危険だ」と忠告したとも言われている)が、どちらにせよ一存の死は、三好軍の軍事力衰退を招くことになった。
ちなみに十河一存の勇猛さを語るエピソードがある。あるとき、一存は合戦中に左腕を負傷した。普通ならば養生するであろうが、一存は傷口に塩をすり込んで消毒し、藤の蔓を包帯代わりにして傷口に巻いて、再び戦場で猛然と槍を振るったという。このため、一存は『鬼十河』と呼ばれて敵に恐れられたという。また、その武勇から家臣たちからも信望厚く、一存の髪型は『十河額』と呼ばれて、真似する家臣も多かったという。