南部光行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南部 光行(なんぶ みつゆき、1165年(永万元年)? - 1236年4月25日(嘉禎2年3月18日)?)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将。南部氏の始祖。父は加賀美遠光。母は和田義盛の娘(異説あり)。
通称は信濃三郎、もしくは南部三郎。1180年、石橋山の戦いで源頼朝に与して戦功を挙げたため、甲斐国南部牧を与えられた。このとき、南部姓を称したという。1189年、奥州藤原氏の討伐で戦功を挙げ、陸奥国糖部郡などを与えられた。1190年には頼朝に従って上洛し、その後、奥州の領地に三戸城を築城したが、自身は奥州にはほとんど赴かず、鎌倉に在住した。
死没年には1215年11月21日、1236年3月18日など様々な説があるが、1238年2月に将軍・九条頼経に従って上洛したという説もあり、定かではない(有力な説は1236年説であり、頼経時代以後も生きていたかどうかには疑問がある)。死後、従三位を贈られた。
六人の息子がおり、長男の行朝は庶子の為一戸氏の祖となり、次男の実光が南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖にそれぞれなった。