加賀美遠光
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加賀美 遠光(かがみ とおみつ、康治2年(1143年) - 寛喜2年4月19日(1230年6月6日)?)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武士。河内源氏の流れを汲む甲斐源氏加賀美氏の始祖であり、甲斐国加賀美郷を本領とした。父は源清光(武田氏第3代)。母は源義業の娘。童名は豊光丸、通称は加賀美次郎。
伝承によれば、承安元年(1171年)に宮中に怪異が起こり、高倉天皇は源氏の弓矢の名手として遠光を召され(当時遠光は滝口の武士であったとされる)、鳴弦の術を行わせた。無事に怪異は治まり、遠光は褒賞として不動明王像と近江国志賀郡を下賜されたという。この不動明王像は現在も山梨県旧中富町の大聖寺に安置されており、国の重要文化財に指定されている。さらに遠光は特別に「王」の一字を許されたとされ、加賀美氏の家紋は三階菱の中に「王」の字を配している。
源平合戦に際しては次男の小笠原長清と共に参加し、平家が滅された1185年には源頼朝より信濃守に任じられた。以後は頼朝の家臣として活動し、しばしば『吾妻鏡』に記述が見られる。
晩年には衰微していた真言宗の古刹である法善寺を自らの加賀美館に移させ、また現在甲府市にある遠光寺(当時は臨済宗であったが、現在は日蓮宗)を創建した。
5人の息子がいるが、長男の秋山光朝は平家嫡流である平重盛の娘を妻としていたため頼朝に滅ぼされたものの、その系譜は秋山氏として続いている。次男の小笠原長清は小笠原氏を、三男の南部光行は南部氏の祖となった。四男の加賀美光経が加賀美氏を継ぎ、五男の於曽経行は奥州藤原氏征伐の際に軍略で功を立てた。