南部利直
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南部 利直(なんぶ としなお)は南部氏第27代当主。陸奥盛岡藩の初代藩主。
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時代 | 安土桃山時代から江戸時代前期 | |||
生誕 | 1576年4月13日(天正4年3月15日) | |||
死没 | 1632年10月1日(寛永9年8月18日) | |||
別名 | 彦九郎(通称)晴直(別名) | |||
戒名 | 南宗院殿月渓晴公大居士 | |||
死没 | 岩手県盛岡市の東禅寺 | |||
官位 | 従四位下、信濃守 | |||
藩 | 陸奥盛岡藩主 | |||
氏族 | 南部氏 | |||
父母 | 父:南部信直、母:泉山出雲の娘・慈照院 | |||
妻 | 正室:蒲生氏郷の娘・源秀院 側室:山田九郎左衛門の妹・法源院 松子(花輪氏・慈徳院) 楽女(石井氏・香林院) 中野嘉兵衛の娘・仙寿院 |
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子 | 南部家直(長男)、南部政直(次男)、 南部重直(三男)、南部利康(四男)、 南部重信(五男)、山田利長(六男) 南部直房(七男)、 娘(最上義俊正室のち中野元慶室)、 娘(北直愛室)、娘(東胤政室) |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
天正4年(1576年)、第26代当主・南部信直の長男として三戸の田子城にて生まれる。慶長4年(1599年)、父が死去したため、家督を継いで南部家の第27代当主となった。
[編集] 関ヶ原
慶長3年(1598年)に豊臣秀吉が死去した後は、父とともに徳川家康に近づいた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して上杉景勝(西軍)と戦おうとしたが、領土拡大を密かに謀った伊達政宗が和賀忠親を煽動して領内で一揆が起こったため、帰国して慶長6年(1601年)までに一揆を鎮圧した。このため、家康から所領を安堵され、盛岡藩の藩祖となった。
[編集] 江戸時代
利直は内政手腕に優れ、白根金山や西道金山をはじめとする鉱山開発から財政を安定させ、元和元年(1615年)には盛岡城を築城して城下町を形成し、盛岡藩の基礎を固めていった。しかしその一方で、父・信直の時代に発生した九戸政実の謀反の先例を恐れてか、血縁関係の無い家臣の多くを処罰、追放して一族衆で南部氏を固めるという独裁集権化も行なっている。
慶長19年(1614年)には大坂冬の陣にも参戦し、江戸幕府との関係強化に務めた。
寛永9年(1632年)8月18日、江戸桜田屋敷で死去。享年57。後を三男・重直が継いだ。
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