南部信直
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南部 信直(なんぶ のぶなお)は、陸奥の戦国大名で、南部氏の第26代当主。
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時代 | 戦国時代から安土桃山時代 | |||
生誕 | 天文15年3月1日(1546年4月1日) | |||
死没 | 慶長4年10月5日(1599年11月22日) | |||
改名 | 亀九郎、田子九郎(通称) | |||
戒名 | 常往院殿光録大夫江山心公大居士 | |||
墓所 | 青森県三戸郡南部町の三光寺 | |||
官位 | 従四位下、大膳大夫 | |||
氏族 | 南部氏 | |||
父母 | 父:石川高信 母:一方井安政の娘・芝山芳光大禅定尼 養父:南部晴政 |
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兄弟 | 信直、政信 | |||
妻 | 正室:南部晴政の娘 側室:泉山出雲の娘・慈照院 |
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子 | 南部利直、娘(八戸直栄室) 娘(秋田貞隆室) |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 家督相続
天文15年(1546年)3月1日、南部家の第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井で生まれる。
はじめ南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その娘を正室として養嗣子として迎えられた。しかし元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生すると、次第に晴政から疎まれるようになり、本人も身の危険を感じていたのか、天正4年(1576年)に正室が早世すると養嗣子の座を辞退し、田子城に引き籠もった。
天正10年(1582年)、晴政が死んで晴継が第25代当主を継承した。しかし同年、晴継は謎の暴漢集団によって暗殺されている。これには信直の暗殺説も囁かれている。更に近年では信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたという説も浮上している。しかし、真偽のほどは不明である。晴継には嗣子がなく、このため一族の南長義や北信愛から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった。
[編集] 豊臣政権期
天正14年(1586年)、高水寺斯波氏の当主・斯波詮直を滅ぼして勢力を拡大した。天正15年(1587年)には北信愛を名代にして加賀の前田利家に対し、豊臣政権に臣従する意思を示している。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領は安堵された。しかし、津軽と外ヶ浜を奪い取って自立した津軽為信を謀反人とする旨の訴えは棄却されてしまった。小田原征伐後、秀吉が奥州仕置で奥州に遠征した際、浅野長政と共に先鋒を務めた。
天正19年(1591年)、家臣の九戸政実が反乱を起こすと、秀吉の援軍を得て鎮圧し、政実や九戸実親ら謀反人を処刑している。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉に従って肥前名護屋城に参陣したが、朝鮮に渡海せずして帰国を許されている。
[編集] 最期
肥前より帰国後は、領内の基盤固めに専念した。特に盛岡に居城を築城し始めている。慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康に接近する。慶長4年(1599年)、盛岡城が完成したため、盛岡に居城を移すが、10月5日に盛岡で病死した。享年54。
後を長男の南部利直が継いだ。
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