原爆下の対局
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原爆下の対局(げんばくかのたいきょく)は、1945年(昭和20年)8月6日に行われた第3期本因坊戦第2局のこと。この対局が、橋本宇太郎本因坊と挑戦者岩本薫七段によって広島市郊外の五日市町(現佐伯区吉見園)において行われていた時、アメリカ軍による広島市への原子爆弾投下があった。原爆対局(げんばくたいきょく)、原爆の碁(げんばくのご)ともいう。
爆風により対局は一時中断されたが、ほどなく再開され、同日中に終局し、白番の橋本本因坊の五目勝となった。
[編集] 経緯
1939年(昭和14年)に世襲制が廃止され選手権制になった本因坊戦は、当時の日本の囲碁界の、最も権威ある、重要なタイトル戦であった。この頃は、本因坊戦挑戦手合いは、2年に1度行われていた。
第3期本因坊戦は、1943年の第2期本因坊戦で、第1期本因坊であった関山利一七段に勝ち、第2期本因坊の座についた橋本宇太郎七段(本因坊昭宇)に対し、岩本薫七段が挑戦する形で、1945年(昭和20年)、太平洋戦争末期の、困難な社会情勢のなかで行われた。このとき日本棋院の東京本院は、1945年5月25日の東京大空襲により、既に焼失している。
立会人をつとめた瀬越憲作八段の奔走により、瀬越八段の地元の広島で第3期本因坊戦が、開催されることになり、第一局は、7月23日、24日、25日の3日間、広島市内の日本棋院の藤井支部長宅(中島本町/現平和公園内)で行われ、挑戦者岩本七段の白番5目勝ちであった。
第二局も、当初は広島市内での対局となる予定であったが、地元の警察署から、市内は危険という勧告を受けた結果、対局地が変更され、8月4日、5日、6日の3日間、広島市から10キロほど郊外の、佐伯郡五日市町吉見園(現広島市佐伯区吉見園)にある津脇宅で行われることになった。
対局3日目の8月6日、午前8時15分、局面は106手目頃であった。この日の対局が始められた直後に、アメリカ軍の爆撃機B-29、エノラ・ゲイが投下した原子爆弾が炸裂した。ピカッという光線と大音響がし、爆風で障子襖が倒れ、碁石は飛び、窓ガラスは粉々になったと言われる。橋本昭宇本因坊は吹き飛ばされ、庭にうずくまっていたという。岩本薫の回顧録によれば、「いきなりピカッと光った。それから間もなくドカンと地を震わすような音がした。聞いたこともない凄みのある音だった。同時に爆風が来て、窓ガラスが粉々になった。(中略)ひどい爆風で私は碁盤の上にうつ伏してしまった(以下略)」
この原爆で、第一局を観戦した広島支部の藤井支部長以下関係者は全員死亡し、瀬越憲作八段の息子も亡くなった。
対局は一時中断されたが、ほどなく再開され、同日中に終局し、白番の橋本本因坊の五目勝となった。
第三局は1945年11月11、12、13日に、第四局は11月15、16、17日に打たれ、1勝1敗であった。第五局は11月19、20、21日に、第六局は11月22、23、24日に打たれ、1勝1敗であった。新規定で日本棋院預りとなり、改めて翌年に3番勝負が実施され、岩本薫七段が2連勝して、第3期本因坊の座についた。