厳島の戦い
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厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は天文24年10月1日(1555年10月16日)に、安芸国厳島で毛利元就と陶晴賢との間で行われた合戦である。
[編集] 経緯
これより前天文20年に大内義隆を討ち、大内氏の実権を握った陶晴賢と対立するに至っていた毛利元就はこの年厳島の宮尾に城(宮尾城)を築いた。これは厳島が周防から安芸へ水運を利用する際に重要な位置を占めており、そこに城を築くことで水運路を扼することを狙ったものだったが、同時に晴賢の軍を厳島に誘引するいわば囮の役割も果たしていた。
前年(1554年)の9月に宮川房長ら陶方の軍が安芸に侵入するも折敷畑の戦いで敗れていたが、当時晴賢は石見津和野城主・吉見正頼を攻略していたため戦闘が大規模化することはなかった。翌年の4月から6月にかけて両軍の間で小競り合いが発生したが、この時もやはり本格的な戦闘には発展していない。
晴賢自身が軍を率いて厳島に上陸したのは9月21日のことである。岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられている。陶軍は厳島の塔の岡に本陣を置き、宮尾城を包囲し攻撃を開始した。
一方の毛利軍も、主力が厳島の対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していたが、兵数は4千から5千程度であったとされている。この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に実際に陶軍を誘い込み、身動きの取りにくい状況を作り出すことに成功したが、海上での戦いでより確実に勝利を収める――厳島に接近するため、そして晴賢が厳島から脱出するのを阻止するために必要だった――ために傘下の水軍ばかりでなく伊予の水軍にも援軍を求めた。この水軍はなかなか現れず元就も援軍を諦めたほどだったが、厳島に渡る直前になって到着し毛利軍に加わった。
9月30日の夜半、荒天の中で草津を発った船団は二手に別れて密かに上陸を果たし、翌10月1日早朝一斉に奇襲を仕掛けた。前夜の天候から油断があり、また戦況の変化に対応できずにいた晴賢の軍勢は総崩れとなった。晴賢は島内を逃げ延びたが結局脱出することは出来ず、大江浦付近で自刃して果てた。その後数日間戦闘が続いたが、10月5日には毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(広島県廿日市市)に凱旋、この時晴賢の首実検も行われている。
この戦いの結果大内氏は急速に弱体化し、かわって毛利氏がその旧領を併合していく。そして弘治三年(1557年)には晴賢によって擁立されていた大内義長(大友宗麟の異母弟、大内義隆の養子となっていた)が自害し、大名としての大内氏は滅亡に至った。その後、北九州での対毛利戦争を有利に運ぶことを目的とした、大友宗麟による大内輝弘擁立が数度画策されたがいずれも失敗に終った。
- 文中の年月日の表記は全て旧暦のものである。
[編集] 参考文献
- 森本 繁『戦史ドキュメント 厳島の戦い』(学研M文庫、2001年) ISBN 4059010340
[編集] 関連項目
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