古田重然
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時代 | 戦国時代から江戸時代 | |||
生誕 | 天文13年(1544年) | |||
死没 | 慶長20年6月11日(1615年7月6日) | |||
別名 | 佐介(通称)。景安(別名) | |||
官位 | 織部正 | |||
主君 | 織田信長、豊臣秀吉 | |||
父母 | 父:古田重定、養父古田重安 | |||
兄弟 | 古田重則、古田重然、義弟古田重続 | |||
妻 | せん(中川清秀 妹) | |||
子 | 古田重嗣、古田重尚、古田重広、古田重久 |
古田 重然(ふるた しげてる{諱の読みは「しげなり」とも}、天文13年(1544年) - 慶長20年6月11日(1615年7月6日))は、一般的には茶人・古田織部(ふるた おりべ)として著名。「織部」の名は、壮年期に従五位下織部正の官位を叙任したことに由来している。通称は左介。千利休が大成させた茶道を継承しつつ、大胆かつ自由な気風を好み、茶器製作・建築・造園などにわたって「織部好み」と呼ばれる一大流行を安土桃山時代にもたらした。
[編集] 略歴
1544年天文13年、美濃国本巣郡の山口城主の弟に当たり、茶人であった古田重定の子として生まれる。織部も父の薫陶を受け、武将としての生涯を歩みつつ、茶人としての強い嗜好性を持って成長する。1567年(永禄9年)、織田信長の美濃進駐とともにその家臣として仕えた。翌年の信長の上洛に従軍し、摂津攻略に参加したことが記録に残っている。1569年(永禄11年)に結婚、妻せんの兄は摂津茨木城主中川清秀であった。清秀は当時の織部より身分の高い人物であり、信長が織部にある程度目をかけていたことがうかがえる。1576年(天正4年)には山城国乙訓郡上久世荘(現在の京都市南区)の代官となった。その後も羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の播磨攻めや明智光秀の丹波攻めに従軍するなど、禄高は3百貫と少ないながら、武将として活動している。信長死後は羽柴秀吉に仕え、1585年(天正13年)秀吉が関白になると、織部正(従五位下)の位階と山城国西岡に所領3万5000石を与えられた。その後、九州征伐、小田原征伐に参加し、文禄の役では朝鮮に渡海して活躍した。
1582年(天正10年)から千利休の書簡に織部の名前が見える。この間利休と知り合い弟子入りしたものと考えられ、利休七哲のひとりとされる。1591年(天正19年)に秀吉によって利休の切腹が決まると、利休と親交のあった諸将が秀吉とかかわりあいに恐れるなか、織部と細川忠興のみが利休の見送りを行った。その後利休の地位を継承して、豊臣家の筆頭茶人となった。
1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。しかし利休と同じように反骨精神が旺盛で、徳川幕府の意向を無視することも少なくなかった。また茶の湯を通して全国の大名に多大な影響力を与える存在でもあり、このため家康から次第にその影響力・存在を危険視されるようになる。1615年(慶長20年)の大坂夏の陣後、豊臣秀頼の遺児・豊臣国松を匿ったこと、豊臣氏と内通した嫌疑などをかけられて切腹を命じられた。織部はこれに対し、一言も釈明せずに自害したという。織部の子、重尚と重広も父に殉じて自害した。
なお、織部焼、織部流の創始者でもある。