吉野水分神社
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吉野水分神社 | |
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所在地 | 奈良県吉野郡吉野町吉野山1612 |
位置 | 北緯34度21分14秒 東経135度52分23秒 |
主祭神 | 天之水分大神 |
社格等 | 式内社(大)・村社 |
本殿の様式 | 春日造・流造 |
例祭 | 10月第3土曜日 |
吉野水分神社(よしのみまくりじんじゃ)は奈良県吉野郡吉野町にある神社である。式内社で、旧社格は村社。
葛城水分神社・都祁水分神社・宇太水分神社とともに大和国四所水分社の一つとして古くから信仰されてきた。また、「みくまり」が「みこもり」となまり、子守明神と呼ばれ子授けの神として信仰を集めている。
目次 |
[編集] 祭神
水を司る天之水分大神(あめのみくまりのおおかみ)を主祭神とし、高皇産霊神・少名彦神・御子神・天津彦火瓊瓊杵命・玉依姫命・天萬栲幡千幡比咩命を配祀する。
『神社要録』では「天水分神・国水分神」、『神名帳考証』『大和国大小諸神社神名記並縁起』では単に「水神」と記されている。
[編集] 歴史
創建については不詳である。当社に関する最も古い記録は、『続日本紀』の文武天皇2年(698年)4月29日条で、芳野水分峰神に馬を奉り祈雨したとの記述である。当神社は、元来は吉野山の最奥部、吉野町、黒滝村、川上村の境に位置する青根ヶ岳に位置したとされる。青根ヶ岳は吉野川の支流である喜佐谷川、秋野川などの源流となる山で「水分 = 水配り」の神の鎮座地にふさわしい。大同元年(806年)ごろに現在地へ遷座した。延喜式神名帳では「大和国吉野郡 吉野水分神社」として記載され、大社に列し、月次・新嘗の幣帛に預ると記されている。
平安時代中期ごろから「子守明神」と呼ばれるようになった。豊臣秀吉もこの地を訪れ秀頼を授かったといわれる。現在の社殿は慶長10年(1605年)に秀頼によって再建されたものである。
神仏習合時代には、水分神は地蔵菩薩の垂迹とされ、金峰山の蔵王権現(金峯山寺)に属する神社として修験道の行場の一つとなっていた。明治の神仏分離によって金峯山寺より独立し、村社に列格した。
[編集] 文化財
[編集] 国宝
- 木造玉依姫命(たまよりひめのみこと)坐像-鎌倉時代の作。絵巻に描かれている女性の姿を彫刻に再現したかと思わせる女神像である。日本の神像彫刻には素朴な作風のものが多い中で、本作品は玉眼(眼の部分に水晶を嵌め込む技法)を採用した本格的な彫刻である。像内に建長3年(1251年)の銘がある。本殿の右殿(向かって左)に安置される。神社の神体であるため、一般には公開されず、展覧会等に出品された記録もない。
[編集] 重要文化財
- 社殿(6棟)-各慶長10年(1605年)建造。
- 楼門
- 本殿-正面の3箇所に破風があり、中央に春日造、左右に流造の三殿を横に繋げた形の特異な形式になる。
- 拝殿
- 幣殿
- 回廊(2棟)
- 附:透塀、釣燈篭4基(慶長9年・1604年および延享3年・1746年銘)
- 木造天万栲幡千幡姫命(あめよろずたくはたちはたひめのみこと)坐像