名護屋城
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名護屋城天守跡 | |
通称 |
名護屋御旅館 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
5重7階(非現存) |
築城主 |
豊臣秀吉 |
築城年 |
1591年 |
主な改修者 |
なし |
主な城主 |
豊臣氏 |
廃城年 |
1598年 |
遺構 |
石垣、空堀 |
位置 |
名護屋城(なごやじょう)は肥前国松浦郡名護屋(現在の佐賀県唐津市鎮西町名護屋)にあった城。豊臣秀吉の文禄・慶長の役に際し築かれた城。国指定特別史跡。
[編集] 概要
名護屋(古くは名久野)は海岸線沿いに細長く広がる松浦郡の北東部の小さな湾内に位置し、中世には松浦党の交易拠点の一つであった。ここにはもともと松浦党の旗頭・波多氏の一族である名護屋氏の居城であった垣副城跡があり、豊臣秀吉は大陸への進攻を企図した際、ここを前線基地として大掛かりな築城を計画した。
加藤清正、寺沢広高が普請奉行となった。九州の諸大名を中心に動員し、突貫工事で僅か8ヶ月後の文禄元年(1592年)3月に完成した。規模は当時の城郭では大坂城に次ぐ広壮なものであった。本丸・二の丸・三の丸・山里曲輪などを配し、本丸北西隅に5重7階の天守が築かれた。城跡からは金箔を施した瓦が出土しており、派手好きの秀吉らしく戦争の為に構えた城郭であっても絢爛豪華であったことが伺える。城郭の周辺には各大名の陣屋が配置された。
秀吉は京都聚楽第を3月に出発し当月の内に当地に到着した。翌4月1日には小西行長・宗義智率いる第一陣が朝鮮半島へ出兵した。総勢15万8000の兵を9軍に編成し侵攻当初は好調な進軍を見せていた。しかし明軍の応援以後戦況は膠着、翌文禄2年(1593年)4月に講和交渉が成立した。
講和条件を不服とした秀吉は、再び慶長2年(1597年)2月に14万人を朝鮮半島へと上陸させた。秀吉は朝鮮南部切り取りの既成事実化のため、戦線を限定、長期戦の構えで半島南岸に強固な城を数多く築いた。名護屋城はこれらへの補給拠点となった。慶長3年(1598年)8月、秀吉が没したために全軍撤収し名護屋城もその役割を終えた。 出兵の期間中、秀吉が当城に滞在したのは延べ1年2ヶ月であった。
出兵の終わった後、この地は寺沢広高の治めるところとなった。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)広高は唐津城の築城を開始した。この際に名護屋城を解体しその遺材を使用した。また、この際に二度と城が利用できないように要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業を行われたようだが、本格的に城が破壊されたのは、島原の乱以降のことである。現在は当時の石垣が修復されて残っている。
大正15年(1926年)11月4日国指定史跡となる。昭和30年(1955年)8月22日特別史跡に指定された。