呉新亨
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呉 新亨(ご しんぎょう、1924年1月8日 - 1997年9月26日)は台湾生まれの元プロ野球選手・プロ野球審判員。1948年(昭和23年)以降は萩原 寛(はぎわら ひろし)と名乗った。
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[編集] 来歴・人物
台湾の強豪、嘉義農林学校を卒業後1943年(昭和18年)に来日し大和軍に入団したがその年戦局悪化によりチームが解散し翌年東京巨人軍に移籍。1944年(昭和19年)19盗塁をマークし盗塁王に輝く。1946年(昭和21年)以降もチームに籍を置くがその頃から応召されていた戦前からの中心選手が続々復帰したため控えに甘んじるようになる。それでも1951年(昭和26年)・1952年(昭和27年)の日本シリーズに出場してチームを初の日本一→連覇に導き一花咲かせた。
1952年に現役引退。3年後の1955年(昭和30年)にパシフィック・リーグの東京審判部に入局し1980年(昭和55年)まで審判を勤めた。晩年パ・リークが審判員袖番号を採用しているが彼がつけた番号は20だ。(※1977年初採用から1980年引退まで、20は1981年から1996年まで山田進がつけ、1997年以降は白井一行がつけている。)1981年には1年だけ東京審判部の指導員を務めている。1997年9月26日死去。享年73。
[編集] 通算成績
- 690試合に出場、2230打数568安打、27三塁打、14本塁打、182打点、125盗塁、打率.255。
[編集] タイトル・表彰
- 盗塁王 1944年
[編集] 関連項目
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