和田惟政
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和田惟政(わだこれまさ、天文元年(1532年) - 元亀2年8月28日(1571年9月17日))は日本の戦国時代の武将。室町幕府末期の幕臣である。父は和田宗立(惟助)。弟に和田定利、和田定教。子に和田惟長。伊賀守。紀伊入道?。
近江国甲賀郡和田村(滋賀県)の有力豪族であった。はじめは13代将軍・足利義輝の幕臣として仕える。1565年(永禄8)、義輝が家臣の松永久秀らによって暗殺されると、義輝の弟・足利義昭(覚慶)を一乗院より救い出して一時は自身の屋敷にも匿い、のちに放浪する義昭に付き従っている。越前国の朝倉義景、尾張国(愛知県)の織田信長の援助を得て還俗した義昭が将軍に就任すると、信長によって摂津国芥川城、のちに高槻城を与えられ、池田勝正、伊丹親興とともに「摂津三守護」と称された(ただし幕府によって守護に任じられたわけではないようである)。1569年(永禄12)には備前国の浦上氏攻めに参加する。その後、義昭と信長が対立すると一説には幕臣である惟政も疎まれ、蟄居を命じられたとされるが、姉川の戦いなどに参陣するなど織田氏の傘下にとどまっていたらしい。1571年(元亀2)、松永ら三好三人衆と手を結んだ池田知正を討つため、伊丹氏や茨木氏と共に摂津国白井河原で戦い、池田氏家臣の荒木村重に敗れ戦死したという。惟政の首級を挙げたのは当時池田氏の傘下の国人であった中川清秀とされる。
[編集] キリスト教徒であった惟政
惟政はキリスト教徒で、イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスが織田信長と会見するとき、その仲介役を務めたという。さらに、畿内におけるキリスト教の布教に積極的に協力した。また、後にキリシタン大名として知られる高山右近は、この惟政の配下であったため、キリスト教の教えを強く受けたという。