唐衣
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- 唐衣(からぎぬ)は、十二単を構成する着物の一つ。詳細説明は後述。
- 唐衣(からごろも)は、箏曲の曲名。幕末の万延、文久頃、名古屋、京都で活躍した盲人音楽家吉沢検校が作曲した。『初瀬川』『山桜』『新雪月花』と共に、「新古今組」の一曲。新古今和歌集から唐衣の歌を採り、吉沢自身が考案した「新古今調子」という新たな箏の調弦法によって作曲されている。当時の複雑煩瑣に発達した音楽から、復古的な簡潔美を求めて作られた。
[編集] 起源
唐衣(からぎぬ)の起源は唐から渡来した背子(からぎぬ)というベストのような袖のない上着で、正倉院にも残っている。当初の着丈は腰まであったが、室町時代になると現在のように前身頃の方が後ろ身頃より丈が長い形式となる。十二単で一番上に羽織り、目に付く着物のため、二陪織物(ふたえおりもの)の様な高価な生地で調製するのが約束とされる。
[編集] 唐衣の服制
唐衣の生地は、身分により異なり、また奢侈禁制の影響を受けてその時々でも変わる。青色(麹塵・緑系の色)や赤色(赤紫)の「織物」(高級な紋織物をさす語)とよばれる地は、特に許された女性しか着用できなかった。また、『西宮記』によると節会などの重い儀式には「摺唐衣」もしくは「海浦唐衣」とよばれる波の文様を摺った(描き絵の代用品も多い)ものと、赤い目染裳が用いられ、そのしきたりは中世まで継続した。この名残が采女装束に見られる。
裏地は通常菱文の綾を用い、羽織のように襟を返して着用した。近世は40歳未満の女性は裏地に板引といって糊を厚く引き、滑らかな板に張って平滑な糊の層でコーティングして艶を出した。近世の赤色唐衣は経糸は紫、緯糸は紅で織り、山科流では裏を縹とし、高倉流は表と同系色を用いた。青色唐衣は経糸緑、緯糸黄で織り、このとき、山科流では黄色の裏をつける。なお、秩父宮妃勢津子は婚礼の時経緯とも緑の、緑裏の唐衣を用いて青色と称したが、近代の新儀であろう。徳仁親王妃雅子の青色唐衣もまたこの例に従った。
皇后の料は、古くは赤色や青色の織物が多いが、後深草天皇即位の時母后は白唐衣を用いた。また立后のときは唐衣と表着に白を用いるのが平安中期以降の慣例であり、これらを参照して大正以降即位礼の皇后の料は白唐衣に緑系統の表着という組み合わせに固定化した。
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