正倉院
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正倉院(しょうそういん)は、奈良市の東大寺大仏殿の北西に位置する、高床の大規模な校倉造(あぜくらづくり)倉庫で、聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵していた。元は東大寺の倉庫であったが、明治以降、国の管理下におかれ、第二次大戦後は宮内庁正倉院事務所が管理している。「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
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[編集] 概要
正倉院の宝物には日本製品、中国(唐)や遠くはペルシャなどからの輸入品を含めた絵画、書跡、金工、漆工、木工、刀剣、陶器、ガラス器、楽器、仮面など、古代の美術工芸の粋を集めた作品が多く残るほか、奈良時代の日本を知るうえで貴重な史料である正倉院文書(もんじょ)、東大寺大仏開眼法要に関わる歴史的な品や古代の薬品なども所蔵され、文化財の一大宝庫である。
[編集] 正倉院展
正倉院宝物は通常時非公開である。ただし1940年11月に皇紀2600年記念として東京の帝室博物館において正倉院御物特別展が開催され、1946年からは毎年秋、近隣の奈良公園内にある奈良国立博物館で正倉院展が開催され、(管理する宮内庁は整理済みの物だけで9000点に上る、としている)膨大な量の宝物のごく一部が一般公開・展示されている。毎年多くの見学者を集めている。例年正倉院展で公開される宝物の点数は数十点であり、品目は毎年変更され、うち数点は初公開の宝物になる。したがって代表的な宝物に限り見学をしたい場合でも、複数年の参加・見学が必要になる。
[編集] 正倉院の語義
奈良時代の役所や大寺院には多数の倉が並んでいたことが記録から知られる。「正倉」とは、元来、「正税を収める倉」の意で、律令時代に各地から上納された米穀や物品などを保管するため、大蔵省をはじめとする役所に設けられたものであった。また、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する倉があった。これを正倉といい、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」といった。南都七大寺にはそれぞれ正倉院があったが、のちに廃絶して東大寺のもののみが残っている。このため、「正倉院」は東大寺大仏殿北西に所在する宝庫を指す固有名詞と化している。
[編集] 正倉院宝物の由来
756年(天平勝宝8歳)、光明皇后は、夫聖武天皇の七七忌に、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。その後も光明皇后は3度にわたって、自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献している。これらの献納品については、現存する5種類の「献物帳」と呼ばれる文書に目録が記されている。これらの宝物は正倉院に収められた。
[編集] 北倉・中倉・南倉
正倉院宝庫は、北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)の3つに区分されている。北倉にはおもに聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていた。また、950年(天暦4年)、東大寺内にあった羂索院(けんさくいん)の双倉(ならびくら)が破損した際、そこに収められていた物品が正倉院南倉に移されている。南倉宝物には、仏具類のほか、東大寺大仏開眼会(かいげんえ)に使用された物品なども納められていた。ただし、長い年月の間には修理などのために宝物が倉から取り出されることがたびたびあり、返納の際に違う倉に戻されたものなどがあって、宝物の所在場所はかなり移動している。上述のような倉ごとの品物の区分は明治時代以降、近代的な文化財調査が行われるようになってから再整理されたものである。
なお、「献物帳」記載の品がそのまま現存しているわけではなく、武器類、薬物、書巻、楽器などは必要に応じて出蔵され、そのまま戻らなかった品も多い。刀剣類などは恵美押勝の乱の際に大量に持ち出され、「献物帳」記載の品とは別の刀剣が代わりに返納されている。
正倉院の三倉のなかでも特に北倉は聖武天皇・光明皇后ゆかりの品を収めることから、早くから厳重な管理がなされて、宝庫の扉の開封には勅使(天皇からの使い)が立ち会うことが必要とされていた。なお「勅封」という言葉は本来「天皇の署名入りの紙を鍵に巻きつけて施錠すること」を指し、正倉院宝庫がこの厳密な意味での「勅封」になったのは室町時代以降であるが、平安時代の各種文書記録にも正倉院を「勅封蔵」と表現しており、事実上の勅封であったと見なして差し支えない。平安時代中期には北・中・南の三倉とも勅封蔵と見なされていたが、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺の寺僧組織が管理する)に改められた。1875年(明治8年)、正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。
[編集] 聖語蔵
正倉院の構内にはもう1棟、小型の校倉造倉庫が建ち、「聖語蔵(しょうごぞう)」と呼ばれている。これは東大寺尊勝院の経蔵だったもので、鎌倉時代の建物である。ここに収蔵されていた経巻類約5,000点は明治27年(1894年)に皇室に献納され、現在は他の宝物と同様に宮内庁正倉院事務所が管理している。
[編集] 建造物としての正倉院
校倉造、屋根は寄棟造、瓦葺。規模は正面約33.1メートル、奥行約9.3メートル、床下の柱の高さ約2.5メートルである。
建立時期は不明だが、光明皇后が夫聖武天皇の遺愛の品を大仏に奉献した756年(天平勝宝8)前後とみるのが通説である。759年(天平宝字3年)以降、宝物出納の記録が残っていることから、この年までに建立されていたことがわかる。当初の正倉院の建物構成についてはわかっておらず、記録によれば、平安末期には現存する宝庫1棟を残すのみであったらしい。
床下には10列×4列の柱を建て、その上に台輪(だいわ)と呼ぶ水平材を置く。この上に北倉と南倉は校木(あぜぎ)という断面三角形の材を20段重ねて壁体をつくり、校倉造とする。ただし、中倉のみは校倉造ではなく、柱と柱の間に厚板を落とし込んだ「板倉」で、構造が異なる。なぜ、中倉のみ構造が異なるのか、当初からこのような形式であったのかどうかについては、諸説ある。奈良時代の文書には、正倉院宝庫のことを「双倉」(そうそう、ならびくら)と称しているものがある。このことから、元来の正倉院は北側と南側の校倉部分のみが倉庫で、中倉にあたる中間部は、壁もなく床板も張らない吹き放しであったため「双倉」と呼ばれたとするのが通説である。
校倉の利点として、湿度の高い時には木材が膨張して外部の湿気が入るのを防ぎ、逆に外気が乾燥している時は木材が収縮して材と材の間に隙間ができて風を通すので、倉庫内の環境を一定に保ち、物の保存に役立ったという説があった。しかし、実際には、重い屋根荷重がかかる校木が伸縮する余地はなく、この説は否定されている。また、この工法はログハウスの丸太組み工法とほぼ同様であることから、『日本最古のログハウス』と称されることもある。
現存する奈良時代の倉庫としてはもっとも規模が大きく、また、奈良時代の「正倉」の実態を伝える唯一の遺構として、建築史的にもきわめて価値の高いものである。
校倉造の宝庫は長年、宝物を守ってきたが、1952年に鉄筋コンクリート造の東宝庫、1962年には同じく鉄筋コンクリート造の西宝庫が完成し、翌1963年、宝物類はそちらへ移された。現在、宝物の大部分は西宝庫に収納、東宝庫には修理中の品や、西宝庫に収納スペースのない、大量の染織品が収納されている。
[編集] 国宝指定の経緯
天皇家の私物である「御物」および宮内庁の各部局(書陵部、三の丸尚蔵館、京都事務所、正倉院事務所)が管理する文化財に関しては、文化財保護法による指定の対象外となっており、正倉院の建物や宝物も国宝・重要文化財等には一切指定されていなかった。しかし、「古都奈良の文化財」がユネスコの世界遺産として登録されるにあたり、当該文化財が所在国の法律によって保護の対象となっていることが条件であることから、正倉院の建物も1997年、文化財保護法による国宝に指定された(国宝に指定されたのは宝庫の建物だけで、宝物類は指定されていない)。
[編集] 正倉院の代表的な宝物
- 絵画
- 楽器
- 調度(漆工・木工)
- 木画紫檀碁局(もくがしたんのききょく):碁盤
- たい瑁螺鈿八角箱(たいまいらでんはっかくのはこ、「たい」は王扁に「毒」)
- 漆胡瓶(しっこへい):ペルシャ風の水差し
- 漆金薄絵盤(香印坐)(うるしきんぱくえのばん、こういんざ)
- 粉地彩絵八角几(ふんじさいえのはっかくき)
- 調度(金工)
- 銀薫爐(ぎんくんろ):球形の香炉。火皿が常に水平を保つような仕掛けがある。
- 金銀花盤(きんぎんのかばん)
- 銀壺(ぎんこ)
- 平螺鈿背円鏡(へいらでんはいのえんきょう)
- 金銀平脱背八角鏡(きんぎんへいだつはいのはっかくきょう)
- 調度(その他)
- ガラス
- 白瑠璃碗(はくるりわん):ガラス製の碗。ササーン朝ペルシャの製品と推定される。
- 紺瑠璃坏(こんるりのつき):金属製の脚を付した紺色ガラスの碗
- 刀剣
- 金銀鈿荘唐大刀(きんぎんでんそうのからたち)
- 染織
- ろう纈屏風(ろうけちのびょうぶ。「ろう」は草冠に「臈」)
- 紫地鳳形錦(むらさきじほうがたのにしき)
- 香木
- 書跡・文書
- 東大寺献物帳:光明皇后が聖武天皇の遺品などを東大寺大仏へ献納した際の目録。5種類あるが、中でも「国家珍宝帳」が著名。
- 雑集:聖武天皇筆
- 楽毅論(がっきろん):光明皇后筆