善徳女王
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善徳女王 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 선덕여왕 |
漢字: | 善德女王 |
平仮名: (日本語読み仮名): |
ぜんとくじょおう |
片仮名: (現地語読み仮名): |
ソンドクヨワン |
ラテン文字転写: | Seondeok Yeowang |
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善徳女王(ぜんとくじょうおう、生年不詳 - 647年)は、新羅の第27代の王(在位:632年 – 647年)であり、姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の長女であり、王母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王婿は飲葛文王。先王が632年1月に死去したときに男子がなく、また父母ともに王族である聖骨の男子がいなくなっていたために、徳曼がその呪術者的性格に期待されて王位を継いだ。即位して後に聖祖皇姑の号を国人から奉られた。現代の韓国においては善徳女主とも呼ばれる。
目次 |
[編集] 生涯
百済と高句麗との同盟によって当時の新羅は国際的に孤立した状況にあり、それを打開しようとして唐に積極的に近づき、朝貢を重ねて635年には父の真平王に与えられていた<柱国・楽浪郡公・新羅王>の爵号を継承することができた。
633年8月には西武国境地帯に百済の侵入を受け、636年5月には百済が独山城(忠清北道槐山郡)を襲撃しようとして潜んでいたところを、角干(1等官)の閼川を派遣して殲滅させることに成功した(#三つの予知の第二を参照)。この後に閼川を大将軍に任命し、638年に高句麗が七重城(京畿道坡州市)に攻め入ったときには、閼川が高句麗兵を撃退した。しかし642年7月には百済に西部40余城を陥落させられ、同年8月には高句麗と百済とが連合して党項城(京畿道華城郡南陽面)を奪取し、新羅の唐への朝貢の経路が絶たれてしまった。同月、百済によって大耶城(慶尚南道陜川郡)も陥落させられている。その年の内に大耶城の奪回のために、対百済戦の救援軍を求めて王族の金春秋(後の武烈王)が高句麗に赴いたが、高句麗からの援軍は得られなかった。
643年9月には唐に使者を送って高句麗・百済を討つ救援軍を求めたが、唐からは援軍を派遣するには女王を廃して唐の王室から新王を立てることを迫られた。こうした唐の姿勢に対して新羅国内では親唐派と反唐派の対立を生じ、女王自らが任命した上大等の毗曇らが647年正月に女王の廃位を求めて内乱を起こした。上大等に代表される中央貴族に対抗して金庾信ら地方勢力の有力者が女王を支援して乱の収拾に当たったが、同月八日に女王は陣中に没し、善徳と諡され、狼山(慶州市)に葬られた。在位16年。その後直ちに金庾信らは真徳女王を立て、正月十七日になって乱を鎮圧して毗曇ら20余名を誅殺した。死後、唐からは<光禄大夫>号を追贈された。
善徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた。帰国した慈蔵法師の発願で645年3月には皇龍寺の九重塔を創建したほか、女王の時代に芬皇寺や霊廟寺が完成している。霊廟寺の建立と同時に、瞻星台(天文台)を築いたとも伝えられている。また640年には王族の若者を数多く留学生として唐の国子監に派遣し、唐の文化が新羅に流入するきっかけとなったように、新羅の文化発展への貢献が知られている。
[編集] 年号
真平王代から用いられた建福の年号を、在位3年(634年)の3月に仁平と改元した。
[編集] 三つの予知
善徳女王の神秘性・聡明さの表れとして、三つの予知を行なったことが伝えられている。
第一は、唐の太宗が牡丹の花の絵と種を贈って来たときに、その花には香りがないであろうと言ったこと。理由を尋ねられて、「花の絵には蝶や蜂が描かれていなかったことから香りがないと解かった」と答えた。第二は、宮殿の西の玉門池に蝦蟇がたくさん群がって鳴いたときに、西の国境付近に賊の潜んでいることを知り、角干の閼川らとを派遣して賊を滅ぼさせたこと。これも理由を尋ねられて、蝦蟇(蛙)の怒った目は兵士を表し、西の国境付近には玉門谷という地名があるので、玉門池に蛙が集うのは玉門谷に兵士が集っていることだと解かったと答えた。第三は、自分の死の年月を予測して忉利天の中に埋めるように、と言ったこと。群臣は忉利天の場所がわからず尋ねると、狼山の南であると答えた。後に毗曇の内乱が起こったときに女王は予測した通りの月に亡くなって狼山の南に葬られたが、さらに十余年後に文武王によって女王陵の下に四天王寺が建てられた。忉利天とは須弥山の頂上にある帝釈天のすむ世界であって、帝釈天が四天王を従えていることから、四天王の上にある忉利天の世界に葬られることを言い当てた、と理解されたものである。
これらの説話のうち第三のものは、仏教的説話集の性格をも有する『三国遺事』紀異・善徳王知幾三事だけが記しているが、第一・第二の説話は『三国史記』新羅本紀・善徳女王紀にも記されており、女王がシャーマン的な王であったと考えられる根拠となっている。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第1巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫372〉、1980 ISBN 4-582-80372-5
- 『完訳 三国遺事』一然著 金思燁訳、明石書店、1997 ISBN 4-7503-0992-3(原著『完訳 三国遺事』六興出版、1980)
- 井上秀雄『古代朝鮮』、日本放送出版協会<NHKブックス172>、1972 ISBN 4-14-001172-6
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