国立政治大学
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モットー: 親愛精誠 | |
総長/学長 | 呉思華 |
大学種別 | 公立 |
宗教の有無 | なし |
設立年 | 1927年 |
所在地 | 中華民国 台北市 文山区 指南路二段64号 |
人数 | 卒業生○人,在校生14,845人 |
教員数 | 627人 |
寄付金 | X |
キャンパス環境 | 都市 |
キャンパス面積 | 103.896465hectare |
スポーツチーム | Xxxxx |
マスコット | Xxxxx |
国立政治大学(こくりつせいじだいがく National Chengchi University)は、台湾台北市にある国立大学。略称は政大。前身は1927年に南京で設立された中国国民党中央党務学校に遡ることが出来る。当時の中国の上級公務員養成の唯一の学校としての性格を有し、卒業生は県長等の各官僚として任用されていた。
国共内戦により南京校舎は閉鎖されたが、1954年に台湾において復興されると、一般大学生の募集を開始し、人文社会学の総合大学に転換した。現在は文、理、法、商、社会科学、外国語文、伝播、国際事務、教育等の9学院(学部)、33学系(学科)、14研究所を備え、また幼稚園から博士課程までを擁する台湾を代表する国立大学となっている。
目次 |
[編集] キャンパス
[編集] 歴史
[編集] 中央党務学校
政治大学の前身は1927年に南京において設立された中国国民党中央党務学校であり、当時は北伐を担う国民党幹部の教育を担当していた。校訓は1924年に開校した黄埔軍校と同一の「親愛精誠」であり、これは開校の際に蒋介石によって決定された。当初は国立東南大学の校舎を借用していたが、後に江蘇省立法政大学の跡地に移転している。教育課程はは党務及び社会運動、政治宣伝に重点が置かれ、理論、歴史、地理、党組織についての教育が行われていた。中央党務学校の校長は蒋介石であったが、実質的には副教務主任であった羅家倫、谷正綱及び副総務主任の呉挹峰による学校運営であった。
[編集] 中央政治学校
国民党幹部養成に主眼を置いていた中央党務学校であったが、1929年に中央政治学校と改編し、政治、財政、地方自治、社会経済学部を設置、後に教育、外交学部が設置された。1937年、日中戦争の影響により重慶に移転すると、教育課程の見直しが行われ、法政、経済、外交、新聞、地政の5学部を、後に新聞事業専修班、新聞専修科、地政専門修科、会計専修科、統計専修科、語文専修科を成立させ、党幹部の養成を強化していった。中国国民党の訓政時期における政治人材の養成学校としての位置づけがなされ、中国共産党の中央党校に類似した性格を有していた。
[編集] 国立政治大学
1946年、中央政治学校と中央幹部学校が合併し、国立政治大学が誕生する。学長は専任制が採用されると同時に、蒋介石を終生名誉学長と定めた。1949年に国共内戦の結果、国民党が中国大陸で不利な形勢になると、政治大学の学生を養成する余裕がなくなり、貧弱な装備の下、学徒出陣が実施された。軍事作戦能力に欠如する学生は敗北を重ね戦死し、僅かに生き残った学生は軍籍のまま香港を経て台湾に流入した。
中華民国政府が台湾に移転した後、反攻大陸を政治目標としたため台湾での高等教育は無視され、国立大学の復興は勿論、私立大学の増設も認められなかった。しかし膠着状態が長期化するにつれ、国民党内部でも経済発展の為の人材育成の重要性が再認識され、政治大学は国民党幹部養成を目的として外省人教授に依る高等教育の計画が立案されるようになった。また日本統治時代の高等教育機関を継承した台湾大学、師範大学、台南工学院等の教育機関が存在していたが、国民党政府の台湾移転により爆発的に増加した人口に対応できていないことから、1954年に教育部長張其昀により台北県木柵鎮の教育部の倉庫がある台北郊外を利用して国立政治大学の復活が決定した。この後中国で存在していた有名国立大学、国立清華大学、国立交通大学、国立中山大学、国立中央大学等の復興の先例となっている。1955年、国立政治大学は大学部の復活により、台湾の大学としての歴史を歩み始めたのである。
[編集] 年表
年 | 月日 | 事跡 |
---|---|---|
1927年 | 5月20日 | 南京にて中国国民党中央党務学校として開校 |
1928年 | 2月28日 | 江蘇省立法政大学跡地へ移転 |
1929年 | 7月28日 | 中央政治学校に改編 |
[[1935年 | 2月28日 | 研究部を設置し、大学部と連携した高等教育を実施 |
1937年 | 9月5日 | 日中戦争の影響により重慶市へ疎開 四川省衛生局等工業職業学校に移転する |
1941年 | 6月16日 | 法政科、外交科、経済科を設置し学生募集を再開 |
1942年 | 12月1日 | 中央幹部学校が開校 |
1946年 | 8月7日 | 中央政治学校と中央幹部学校を合併し、国立政治大学が開校 大学部、研究部、専修部、公務員訓練部を設置 |
1948年 | 7月31日 | 文学院、法学院、政治経済学院、教育研究所で学生募集を開始 |
1949年 | 1月 | 国共内戦の影響により教職員3名及び学生300余名が軍校へ移籍 約80名の学生が戦時内閣警衛軍に参加 事実上の閉校 |
1950年 | 4月9日 | 台北市の円山飯店で約500名の学校関係者が集会を開き政治大学復興を求める |
1954年 | 6月9日 | 台湾に移転した中華民国政府教育部が政治大学再興の計画を提出 |
1955年 | 7月13日 | 国立政治大学が再興 教育学系、政治学系、新聞学系、外交学系、辺政学系を設置、100名の学生募集を行う |
1957年 | 11月13日 | 文学院、法学院、商学院の3学院、14系の組織への改編が決定 |
1960年 | 2月18日 | 付属実験学校として小学部が開校 |
1960年 | 5月5日 | 夜間部を設置 |
1964年 | 9月30日 | 実習放送局政大之声が放送開始 |
1977年 | 9月15日 | 大学図書館中正図書館が開館 |
1992年 | 8月1日 | 空中行政専科進修補習学校の業務内容を国立空中大学へ移管 |
[編集] 組織
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[編集] 学生
[編集] 教員
- 陳大斉 政治大学台湾で復校する時、初代の学長。日本東京帝国大学文学大学哲学門卒業。北京大学教授、総長代行歴任。
[編集] 歴代学長
区分 | 代 | 氏名 | 任期 |
---|---|---|---|
中央党武学校 | 初代 | 蒋介石 | 1927年~1929年 |
中央政治学校 中央幹部学校 |
初代 | 蒋介石 | 1929年~1946年 1944年~1946年 |
政大(南京) | 初代 | 蒋介石 | 1946年~1947年 |
政大(南京) | 第2代 | 顧毓琇 | 1947年~1949年 |
政大(南京) | 第3代 | 楊希震 | 1949年~1954年 |
政大(台北) | 第4代 | 陳大斉 | 1954年~1959年 |
政大(台北) | 第5代 | 劉季洪 | 1959年~1973年 |
政大(台北) | 第6代 | 李元簇 | 1973年~1977年 |
政大(台北) | 第7代 | 欧陽勛 | 1977年~1986年 |
政大(台北) | 第8代 | 陳治世 | 1986年~1989年 |
政大(台北) | 第9代 | 張京育 | 1989年~1994年 |
政大(台北) | 第10代 | 鄭丁旺 | 1994年~2000年 |
政大(台北) | 第11代 | 鄭瑞城 | 2000年~2006年 |
政大(台北) | 第12代 | 呉思華 | 2006年~ |
[編集] 主な出身者
- 程建人 - 元外交部部長(外務大臣)
- 黄営杉 - 元経済部部長(経済産業大臣)
- 胡志強 - 元外交部部長、現台中市市長
- 李慶安 - 立法委員(国会議員)
- 李慶華 - 立法委員
- 李俊毅 - 立法委員
- 李四端 - ニュースキャスター
- 林依晨 - 女優
- 林濁水 - 元国会議員
- 劉守成 - 元宜蘭県県知事
- 李元簇 - 元台湾副総統
- 宋楚瑜 - 親民党党首、元台湾省省長
- 施文森 - 元司法院大法官(最高裁裁判官)
- 蕭萬長 - 元行政院長(内閣総理大臣)
- 許玉秀 - 司法院大法官(女性)
- 王和雄 - 司法院大法官
- 張雨生 - 歌手(故人)
[編集] 校章
校章は中華民国の国花である梅をかたどったデザインで、国旗である青天白日満地紅旗の三色を使用している。これらは、国家のための人材育成の意味を象徴している。
[編集] 姉妹校
- 日本:東京外国語大学、御茶の水女子大学、立命館大学、立命館アジア太平洋大学、早稲田大学、北海道大学、名古屋大学、関西学院大学、国際教養大学、慶應義塾大学、香川大学
- アメリカ:ワシントン大学
- 韓国:高麗大学、成均館大学、釜山大学
- フランス:パリ高等政治学院
- ベルギー:
- スイス:
- ロシア:
- トルコ:アンカラ大学
[編集] 関連項目
- 国立政治大学付属高級中学校
- 国立政治大学付設実験小学校
[編集] 外部リンク
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