園田天光光
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園田 天光光(そのだ てんこうこう、1919年1月23日 – )は、日本の政治家。故・園田直夫人。旧姓松谷。
[編集] 来歴
東京都出身。実業家・松谷正一の長女として生まれる。「天光光」という個性的な名前は、政治好きの正一が「明治維新の志士のような革命家になって欲しい」という願いを込めて命名したとされる。1940年東京女子大学英語専攻部、1942年早稲田大学法学部をそれぞれ卒業し、1944年から海軍省報道部嘱託を務めていた。
戦後は川崎市に疎開し、戦争で生き残ったことに対する罪悪感のような思いに苛まれながら過ごしていたが、1945年10月1日の朝、ラジオ番組で「上野公園で餓死者が累々と横たわっている」との復員軍人の投書が放送されるのを聞き、すぐさま父親とともに、生まれ故郷の上野に赴いた。そこで飢餓線上で苦しむ路上の人々をつぶさに眺めると、帰宅途上新宿で途中下車し、街頭で現状の危機打開を熱っぽく呼びかけた。やがて彼女の演説に共鳴した人々とともに「餓死防衛同盟」を結成し、食料の調達ルートの開拓や、官庁・議会への陳情・デモを行った。
1946年、父親の友人の勧めもあり、第22回衆議院議員総選挙に旧東京2区から餓死防衛同盟で立候補し当選、日本初の女性代議士の一人となる。当選後日本社会党に入党し、1947年再選を果たすも、芦田内閣の予算案に反対して除名となり、黒田寿男・岡田春夫とともに労働者農民党を結成する。1949年は労農党から3選するが、党の資金繰りについて幹部が口を濁したことなどから不信感を持ち脱党、無所属となった。
1949年、民主党の妻子ある青年代議士・園田直との恋愛が発覚、白亜の恋としてマスコミを賑わせた。最初は「虚偽報道」と否定していたものの、やがて妊娠という「厳粛なる事実」が明らかとなり、父の猛反対を押し切って駆け落ち同然に同棲、結婚した。同年中に出産。現職国会議員の妊娠・出産は憲政史上初めての出来事であった。一方追い出された形の前妻は園田の父親の看病に務めながら元のサヤに戻る日を待ち続け、世間の同情を得た。市川房枝・平林たい子らからも「無節操」と激しく批判され、すっかり悪役となった天光光は1952年以降改進党・自由民主党から4回出馬するも全て落選、1958年の選挙後は離婚騒動の一幕もあった。1960年頃から夫のサポートに専念するようになる。
夫の没後、後援会が分裂し、1986年の総選挙に旧熊本2区から無所属で出馬した前妻の息子・園田博之の対抗馬として、同じく無所属、中曽根派(渡辺美智雄の温知会系)の支援で同選挙区から立候補するも、トップ当選した博之に遠く及ばず落選する。
2000年、橋本聖子参議院議員の妊娠を契機として国会議員の産休制度創設が議論されることになったが、同年2月、現職国会議員としてただ一人出産を経験した人物(当時)として自民党の「国会議員の産休問題に関する懇談会」に参加し、野田聖子衆議院議員らとともに制度創設推進の立場で発言。一部から「議員を辞職すべき」との声も上がっていた橋本を擁護し、国会規則改正に一役買った。
2006年現在、80代後半の高齢にも関わらず、自民党各種婦人団体協議会会長、NPO法人育桜会理事長、日本・ラテンアメリカ婦人協会会長、日本科学模型安全委員会名誉会長、日本会議役員など、多数の団体の役員を務めている。
[編集] 外部リンク
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