壷の碑
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壷の碑(つぼのいしぶみ)とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑である。
袖中抄の19巻では「みちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。」とある。
壷の碑のことは多くの歌人が和歌に詠った。藤原清輔,寂蓮法師,西行法師,藤原慈円,源頼朝,藤原仲実,和泉式部,南部重信,高山彦九郎,岩倉具視,大町桂月らがこの碑のことを詠っている。内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしている。数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、どこにあるか不明であった。
多賀城跡の多賀城碑が壷の碑ではないかとする説がある。松尾芭蕉はこの説に賛成をしているが、菅江真澄らは文面や距離的な問題を指摘し、否定している。田村麻呂が到達している地点であることは有利ではあるが、日本のはてとか日本の中央のよしを書いたという事とは一致しない。明治時代に和歌を詠んだ人たちも、多賀城碑が壷の碑であることを納得している人は少ない。
青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に千人の人間で石文をひっぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。このため、明治天皇が東北地方を巡幸する際に(1876年)、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。
1949年6月、東北町千曳集落の川村種吉は千曳集落と石文集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、汚れてはいるものの、石の地面に埋まっていたところの面にははっきりと「日本中央」という文面が彫られていたという。
この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行った武将は文屋綿麻呂であるが、多くの古い事柄を有名な英雄坂上田村麻呂に関係づける傾向がこの地方に多い。実際に綿麻呂が書いたとすれば811年頃の出来事になる。
発見後、地元は大騒ぎになり、新聞社や学者が調査を行うが、調査の以前に苔などの汚れを取るためタワシでこすったりし、また新聞社が拓本をとるために薬品を使ったためか、偽作説が主流を占めるようになった。袖中抄の記述とは一致するが常識とは違う「日本中央」という文面や、芭蕉によって壷の碑と認定された多賀城碑の存在。田村麻呂が現地に到達していないという問題や、同じ青森県のキリストの墓の騒ぎも鑑定を慎重にさせる遠因ともなっていると思われる。
「日本中央」という文面の問題は喜田貞吉は、千島列島を考慮することで問題は解決するとした。日本という名前を蝦夷の土地に使っていた例もあり、蝦夷の土地の中央であるから「日本中央」であるという説もある。津軽の安藤氏も日之本将軍を自称し、しかもそれが天皇にも認められていた。また、豊臣秀吉の手紙でも奥州を「日本」と表現した例がある。
現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。