千島列島
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千島列島と周辺の地形図 |
千島列島(ちしまれっとう、ロシア語:Кури́льские острова́、英語:Kuril Islands)は、北海道の東、根室海峡からカムチャツカ半島の南、千島海峡までの間に連なる列島。
国後島、択捉島、ウルップ島(得撫島)、シュムシュ島(占守島)などの島々からなる。総面積10355.61km²。
全島をロシア連邦が実効支配しているものの旧ソ連はサンフランシスコ講和条約に調印しておらず、日本はいわゆる北方領土の領有権を主張するとともに、他の全島も国際法上領有権は未定と主張している。
※現在も北方四島はもちろん、得撫島以北の得撫・新知・占守の三郡についても札幌国税局管内の根室税務署の管轄とされており、法制的には存続している模様。
当該地域の領有権に関する詳細は本項の他北方領土の項目を、現状に関してはサハリン州の千島列島の項目を見よ。
目次 |
[編集] 概要
![温禰古丹島(オネコタン島)の黒岩山と幽仙湖カルデラ](../../../upload/shared/thumb/c/c4/Onekotan-Kurile-Islands.jpg/300px-Onekotan-Kurile-Islands.jpg)
ウルップ島以北を北千島、択捉島以南を南千島と呼ぶ。また、南千島に対する日本の領有権を主張する立場から、これらの島々を北方四島(北方領土)と呼ぶことがある。また、日本政府は、歯舞諸島と色丹島は千島列島に属さないとしている。
なお、ウルップ島(得撫島)からマカンル島(磨勘留島)までを中部千島と呼ぶことがある。
[編集] 地理
千島列島は環太平洋火山帯の一部をなす火山列島であり、今でも多くの島が活発に火山活動を起こしている。これらの島々は北アメリカプレートの下に太平洋プレートがもぐりこんだ結果生じた成層火山の頂上にあたる。列島内には100以上の火山があり、そのうち40は活火山で温泉や噴気孔も多い。
プレートのもぐりこみにより、列島の200km東方沖に千島海溝ができている。地震も頻繁に起こり、2006年11月15日、近海でマグニチュード7.9の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2006年))また、2007年1月13日にも、近海でマグニチュード8.2の地震が発生した。(→千島列島沖地震 (2007年))
千島列島の気候は厳しく、風が強く非常に寒い冬が長く続く。夏は短く、霧がしばしば発生する。年平均降水量は760mmから1000mmと多めで、ほとんどは雪である。
温帯と亜寒帯にまたがる列島内では植生も異なり、北部ではツンドラ様の植生が、南部では深い針葉樹の森が見られる。列島内の最高峰は最北端の島、阿頼度島の阿頼度山(親子場山、ロシア名アライト山)で海抜は 2,339m。列島南部の国後島東端にある爺爺岳も 1,819mの高さを誇る。
島々の風景は、砂浜、岩の多い海岸、断崖絶壁、流れの速い渓谷と下流では広くなる川、森林と草原、山頂部の荒野やツンドラ、泥炭地、カルデラ湖などからなる。土壌は一般的に肥沃で、火山灰などが周期的に流入することや、海岸部での鳥の糞の堆積などによるものである。しかし険しく不安定な斜面は頻繁に土砂崩れを起こし、新たな火山活動によって裸地が広がっている。
[編集] 生態系
[編集] 海の生物
![千島列島最北の秀峰・阿頼度島の阿頼度富士(親子場山)](../../../upload/shared/thumb/5/5a/Atlasovisland.jpg/300px-Atlasovisland.jpg)
太平洋の大陸棚の縁に位置する海底地形、および海流の影響(オホーツク海内部で、アムール川の運ぶ養分を含んだオホーツク環流と、カムチャツカ半島東岸を流れて千島列島北部から入り込んだ養分豊かな親潮が合流し、これがさらに千島列島から流れ出し親潮と再合流する)により、列島周囲の海水は北太平洋でも最も魚の繁殖に適している。このため、動植物などあらゆる種の海洋生物からなる豊かな生態系が千島列島付近に存在できる。
千島列島の島のほとんどの沖合いは巨大な昆布の森に取り囲まれ、イカなど軟体生物やそれを捕食する魚、それを狙う海鳥など多くの生き物の暮らしの舞台になっている。
さらに沖合いにはマス、タラ、カレイ、その他商業的価値の高い魚が多く泳いでいる。明治前後から日本の漁民の活動の場となってきたが、1980年代まではイワシが夏には山のように獲れていた。その後イワシは激減し、1993年を最後に水揚げされておらず、千島列島の漁村に打撃を与えている。またサケ類が千島列島の大きな島々で産卵し、周囲で捕獲される。
魚を求める哺乳類の巨大な生息地もある。アシカ、トド、オットセイがいくつかの小島に集まり、ロシアでも最大の生息地となっている。これらの哺乳類はかつてアイヌ人などの捕獲の対象となり、その肉は食料に、皮や骨はさまざまなものの原料(毛皮の服など)になってきた。千島列島への民族集団の広がりも、これらの生物を追っての移住だった可能性もある。19世紀から20世紀はじめにかけ、オットセイは毛皮採取のために乱獲され、たとえば雷公計島に19世紀に1万頭いたオットセイは19世紀末には絶滅した。これと対照的に、アシカやトドは商業的狩猟の対象とならなかった。1960年代以来これらの狩猟の報告はなく、アシカやトドの生息は順調で、場所によっては増えている。絶滅した例外は、かつて千島列島でも見ることのできたニホンアシカであり、魚を捕食することから害獣として駆除された結果20世紀はじめにはほとんど見られなくなった。クジラ類も多く、特にオルカ、アカボウクジラ、ナガスクジラなどが多く観測されている。
ラッコも毛皮貿易のため19世紀に乱獲された。より価値の高いラッコの毛皮を手に入れるためロシアの千島列島への勢力拡大が活発になり、日本の権益と衝突する結果になった。ラッコは急速に減少し、20世紀半ば以降ほとんど狩猟が禁止され、徐々に千島列島内での生息地が復活している。
千島列島にはその他、数多くの種の海鳥が生息する。外敵のいない小島では、断崖の上などで多くの鳥が巣をつくり子育てを行っている。
[編集] 陸の生物
千島列島の陸の生態系は、南の北海道やサハリン、北のカムチャツカ半島などから来た、北アジアと同様の種が構成している。種の多様さにもかかわらず、固有種は少ない。
面積の小ささと地理的孤立により、大型陸上哺乳類はあまり生息していない。キタキツネやホッキョクギツネは1880年代に毛皮交易のため持ち込まれた外来種である。さらに、同じ頃持ち込まれたネズミ目の生物が陸上哺乳類の多くと入れ替わった。列島南北の大きな島にはヒグマ、キツネ、テンなどが元から住んでいる。また南千島の大きな島々にはシカもいる。ハヤブサ、ミソサザイ、セキレイなどの鳥も森に住んでいる。
[編集] 歴史
国家による領有以前にはアイヌ民族などが先住していた。彼らは主に南千島、得撫島(ウルップ島)、北部の占守島(シュムシュ島)、幌筵島(パラムシル島)などで暮らしていた。18世紀から急速に東方に拡大したロシア帝国と、1786年に最上徳内を派遣し調査を実施、1801年に富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てるなど蝦夷地の経営を強めていた日本との間で、国境の線引きが問題となったが、1855年の日露和親条約で択捉島以南が日本領として確定する。1875年の樺太・千島交換条約で樺太と北千島とを交換し、全千島列島が日本領となる。
日本政府は国策として、千島アイヌ全員を色丹島に強制移住させた。慣れない生活と風土にアイヌは次々に倒れ、戦前に全滅した。
太平洋戦争(大東亜戦争)末期のヤルタ会談(1945年2月)での密談において、ソビエト連邦のスターリンは、戦後に南樺太・千島列島を領有することで、ルーズベルト米大統領から承諾を受けたが、しかし、日本政府の公式見解としては日ソ中立条約有効期間内に条約違反の対日参戦を決めるなど国際法違反であり、また樺太領有の当事者である日本が関与しておらず、国際法上これがロシアの樺太領有の根拠とはいえない。
![幌筵島のセベロクリリスク(柏原)のメインストリート](../../../upload/shared/thumb/b/b4/214_1426_Sev_Kur_main_street_wiki.jpg/300px-214_1426_Sev_Kur_main_street_wiki.jpg)
1945年(昭和20)8月14日、日本は連合国に対してポツダム宣言受諾を表明し、間もなく武装解除をおこないはじめた。千島列島も米軍機の攻撃にさらされていたが、ポツダム宣言受諾の了解を持って止んだ。一方8月11日には北緯50度国境を侵犯してソ連の赤軍第一極東軍が南樺太に攻め込み、千島でも入れ替わるように国籍不明機(実際はソ連軍機)の攻撃を受け、8月18日にカムチャツカ半島のロパトカ岬から砲撃を開始、同時にペトロパブロフスク・カムチャツキーから出撃した赤軍第二極東軍が占守島(シュムシュ島)に上陸し、日本軍第五方面軍第91師団と交戦した。8月21日に停戦したが、4日間の戦闘でソ連側1567名、日本側1018名の死傷者(ソ連資料)を出した(日本資料ではソ連側約3000、日本側600から700となっている)。
スターリンはシュムシュ島を1日で占領し、余勢を駆って北海道の東半分(留萌から釧路を結ぶ線)を占領する予定であったが、予想外の抵抗を受けた(日本降伏直後、スターリンはトルーマンへの電報の中で、ソ連軍による千島列島と北海道北半分の占領作戦準備をはじめたが、北海道に関してはヤルタ協定に含めていなかった為、トルーマンに拒否された)。占守島の日本軍武装解除は8月23日と24日に行われた。千島の攻略は樺太を見ながら行い、8月26日に松輪島(マツワ島)を、8月27日にウルップ島を占領したが、第二極東軍は択捉島に一度近づきながら、その先に進まなかった。この行動から、スターリンは択捉島以南を米軍占領地区と捉えていたことが窺える。
択捉島以南の南千島は、米軍とぶつかり合う心配がないことを確認してから始めたと見られ、8月28日に樺太制圧が終了した第一極東軍を転用した。8月29日に択捉島を占領、9月1日に国後島と色丹島に上陸し、9月2日に日本が正式に降伏する間も軍を進めたが、両島の制圧には9月4日まで費やした。9月5日に歯舞諸島を占領して一連の計画は完了したが、占守島侵攻で時間を費やさなかったら北海道も侵略されていたと見る者もいる。
ソ連占領地域は北海道との交通を遮断され、千島列島住民は本土への帰還ができなくなり、また本土からも千島の状況をうかがうことはできなくなった。駐屯していた日本軍は武装解除の上、スターリンの指示でシベリアの収容所に連行された(シベリア抑留)また、ソ連は占領地にロシア人を送り込み、日本住民の個人資産を次々に接収していった。千島住民は1947年(昭和22)に全員が殆ど強制的に本土へ引き上げることとなった。
日本は1951年(昭和26)に締結した日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で千島列島を放棄したが、現在は日露和親条約で国境を取り決めた択捉島以南の南千島は含めないと主張し、これらの島々を北方領土と呼んで返還を求めている。また、ソ連がサンフランシスコ条約に署名していないことから、南樺太及び中・北千島はロシア領土ではなく帰属は未定であるとの立場を取っている。しかし、ソ連はサンフランシスコ条約において、日本がウルップ島以北の千島列島だけを放棄すると明言してはいないことや、ヤルタ会談を根拠として全千島の領有は正当だと主張している(しかし、また日本政府の公式見解としてこのヤルタ会談での秘密協定は国際法に違反している)。日本以外の多くの国は事実上、南樺太及び中・北千島についてはロシアの領有権を認めているが、いわゆる北方領土については「日本の領土であるが、ロシアの「占領」下にある」との立場を取る国もある。(出典、一例等:??)
ソ連時代、千島列島全域はソ連ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国実効支配下にあり、ソ連崩壊後も、千島列島は実質的に全てがロシア連邦の実効支配下にある。日本の政策としては北方領土の返還を目指すものだが、日本共産党および旧日本社会党は全千島が樺太・千島交換条約により、平和裏に日本の領土となった経緯をもって、全千島返還を要求している。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク、参考資料
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