多川九左衛門
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多川九左衛門 (たがわ くざえもん、生没年不詳)は、江戸時代前期の武士。赤穂藩主浅野内匠頭の家臣。赤穂藩では持筒頭400石。
多川家は藩内でも有数の重臣家。四十七士のうち小野寺十内・間瀬久大夫・岡野金右衛門・中村勘助・大高源五などと親族の関係にある。元禄14年(1701年)3月14日、主君浅野内匠頭が吉良上野介に殿中刃傷に及んだ際には赤穂におり、元禄14年(1701年)3月29日、大石内蔵助が「浅野家の家臣は無骨なものばかりなので、ただ主君のことを思い、赤穂城を離れようとしません。吉良上野介様へ処分を求めるわけではありませんが、家臣が納得のいくような筋道をお立てください」というような内容の嘆願書を赤穂城収城目付と決まった荒木政羽と榊原政殊に宛ててしたためると、多川と月岡治右衛門にこれを持たせて江戸へ派遣した。
しかし多川たちは江戸で収城目付たちと行き違いとなり、大石内蔵助の「収城目付に直接手渡せ」という命令に背いて浅野家江戸家老安井彦右衛門に相談してしまう。驚きあわてた安井は浅野内匠頭の親族の大名戸田采女正氏定にその書状を見せた。戸田はすぐさま「内匠頭殿は日ごろから幕府を重んじていたのだから、穏便に開城をすることこそが内匠頭殿の存念にもかなうはずである」という内容の書状を内蔵助に宛てて書き、多川達に持たせて赤穂へ帰した。多川と月岡のせいで書状は荒木の目には入らなかった。(ただ荒木たちが赤穂に到着した後、内蔵助の三度にわたる嘆願もあって荒木は老中への取り成しを約束してくれる)
その後、大石内蔵助の浅野家お家再興と吉良家への仇討ちの盟約に名を連ねたが、多川はおそらくこの盟約のお家再興の部分にだけ賛成していたものと思われ、元禄15年(1702年)7月に浅野大学長広がお預かりとなり、浅野家お家再興の望みが消えると、大石内蔵助の神文返しを好機として閏8月15日付けの書状で脱盟を表明して一党から去っていった。元禄15年(1702年)11月16日、多川の親戚小野寺十内は、寺井玄渓にあてて出した書状の中で「多川は浅野家第一の武功がある者の養子なのに卑怯極まりない者である」と罵っている。この書状から多川は養子であったことが分かる。
その後の多川の消息は不明。