戸田氏定
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戸田 氏定(とだ うじさだ、明暦3年3月30日(1657年5月13日) - (享保18年7月23日(1733年9月1日))は、江戸時代中期の大名。美濃大垣藩の第4代藩主。父は第3代藩主・戸田氏西(氏定は嫡男)。母は内藤忠政の娘。正室は松平信之の娘。子に氏長、氏房、定浩、娘(水野忠恒室)、娘(太田資晴室)。官位は従五位下、采女正。
明暦3年(1657年)3月30日生まれ。寛文11年(1671年)12月28日に従五位下采女正に叙任。貞享元年(1684年)6月7日父氏西の死没したため、8月に家督を継いだ。元禄元年(1688年)7月10日に弟氏成に新田3000石を分知した。氏成の養父・戸田氏利の所領を合わせて1万石を超え、大名となり、分家の支藩(三河畑ヶ村藩(大垣新田藩)が誕生した。元禄7年(1694年)3月27日、飛騨国が高山藩主金森氏移封ののち幕領となったため、幕府より戸田が飛騨国検地総奉行に任じられた。
元禄14年(1701年)3月14日、母方の従兄弟にあたる浅野長矩が吉良義央に刃傷に及ぶ。実弟浅野長広は閉門となり、戸田や安部信峯ら従兄弟の大名達も連座して出仕を止められた。その後、赤穂城収城を前に浅野家筆頭家老大石内蔵助は、「我が藩は無骨な家臣どもばかりなので、上野介様への処断がはっきりしないと開城を納得させられない」といった暗に吉良へのお仕置きを求める嘆願書を月岡治右衛門と多川九左衛門を使者にして幕府収城目付の荒木十郎左衛門政羽と榊原采女政殊に出そうとした。しかし月岡と多川は収城目付と行き違いになったまま、江戸へ到着。内蔵助の「江戸家老には見せるな」という命令に背いて江戸家老安井彦右衛門にこれを相談してしまう。案の定、安井はすぐさま戸田にこれを報告。驚いた戸田は「開城こそが公儀を重んじた内匠の意思のはず」といった内容の書を月岡と多川に渡して内蔵助に届けさせた。こうして嘆願は失敗に終わる。
しかし結局、その後、赤穂藩内の論争はお家再興・かたき討ちを前提とした開城でまとまったため、赤穂城は無血で開城された。その後は戸田も浅野家再興のために尽力し、元禄14年(1701年)7月には大石内蔵助・小野寺十内らを大垣に招いて浅野家再興について議した。しかし功を奏さず、元禄15年(1702年)7月18日、浅野内匠頭の弟の浅野大学長広は広島藩お預かりとなり、事実上浅野家再興の可能性はなくなった。その後、大石内蔵助らは吉良義央への仇討ち計画をいよいよ本格化させ、年末には上野介の首をあげて泉岳寺の長矩の墓前に捧げた後に切腹となった。
戸田自身は、その後、平穏で特に何もない人生を送り、享保8年(1723年)4月に嫡子氏長に家督を譲って隠居し、享保18年(1733年)7月23日に死去。享年77。駒込蓮光寺に葬られた。法名は霊台院瑞誉松厳大居士。
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