浅野長広
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浅野 長広(あさの ながひろ、寛文10年(1670年) - 享保19年6月20日(1734年7月20日))は、江戸時代前期から中期の旗本。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭の弟。幼名は戌千代(いぬちよ)。通称は大学(だいがく)。
[編集] 略歴
寛文10年(1670年)10月29日、赤穂藩主浅野采女正長友の次男として江戸で誕生。母は内藤忠政(志摩国鳥羽藩主)の娘波知。15歳のときに兄とともに山鹿素行の門下に入り、兵学などを学んだ。
元禄7年(1694年)8月21日、兄長矩から播磨国赤穂郡の新田3,000石を分与されて旗本の寄合(3,000石以上の旗本で無役の者)に列し、幕府から木挽町に屋敷を賜った。同時にこのとき子のない長矩の仮養子となる。元禄7年9月1日、はじめて将軍徳川綱吉に拝謁。
元禄8年(1695年)12月、長矩が病気で危篤に陥るに及んで仮養子から正式に養子となった。しかし次第に兄と不仲となっていき、廃嫡の噂も立てられた。元禄13年(1700年)11月14日には伊勢国菰野藩主土方市正雄豊(1万1,000石)の養女(雄豊の早世した嫡子土方杢之助豊高の娘)を正室に迎えた。この縁組の背景には浅野内匠頭長矩が天和3年(1683年)に勅使饗応役を命じられた際に土方雄豊が院使饗応役を務めていたことが関係していると思われる。
元禄14年(1701年)3月14日、兄浅野長矩が江戸城において高家肝煎吉良義央に刃傷に及んで切腹となると、弟長広も連座して閉門謹慎、また3,000石の所領も召し上げられた。その後、浅野の遺臣大石内蔵助らは浅野長広をもっての浅野家再興運動をおこなっていたが、翌年7月18日に広島浅野本家にお預けとされ、浅野家再興は絶望的となる。大石らによる吉良邸討ち入りがあったのはそれから5ヵ月後の事であった。なお長広自身は、お預かり中、浅野本家から1,000俵が支給された。
宝永6年(1709年)8月20日、将軍徳川綱吉死去に伴う大赦で許され、宝永7年(1710年)9月16日には新将軍徳川家宣に拝謁して改めて安房国朝夷郡・平郡に500石の所領を賜り旗本に復した。またこれとは別に浅野本家からも300石を支給され続けた。ここに旗本ながら赤穂浅野家は「御家再興」を果たした。享保9年(1724年)7月19日、家督を嫡男の浅野長純に譲って隠居した。
享保19年(1734年)6月20日に65歳で没し、兄内匠頭や四十七士達と同じ高輪泉岳寺に葬られた。法名は亮監院殿月清涼山大居士。また四谷の妙行寺には室の墓があり、法名は蓮光院殿妙澄日清大姉。
[編集] 人物像
忠臣蔵を扱った作品においてはほぼ欠かすことなく登場するものの、たいてい紋切り型の人物として描かれ、明確な性格付けが行われた例は『元禄繚乱』を除いてほとんど見られない。作品によっては名前しか登場しないこともある。
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