多門重共
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多門 重共 (おかど しげとも、万治元年(1658年) - 享保8年6月22日(1723年7月23日))は、江戸時代の幕府旗本。通称をもって「多門伝八郎(おかどでんぱちろう)」と称されることが多い。元禄赤穂事件において浅野内匠頭長矩の取り調べと切腹の副検死役をつとめ、『多門筆記』に長矩の様子を詳しく記した人物として著名。
[編集] 経歴
幕府旗本の朝比奈彦右衛門真辰の三男として誕生。母は落合小平次道次の娘。幼名・通称ははじめ三左衛門だったが、のちに伝八郎としている。やがて旗本多門信利の婿養子に入り、信守と改名する。
寛文6年(1666年)10月8日にはじめて将軍徳川家綱に謁見した。延宝4年(1676年)7月12日、家督の切米400俵を相続して小普請(無役の旗本)に列する。延宝5年(1677年)5月10日に御書院番、さらに貞享元年(1684年)正月26日より進物役となり、元禄9年(1696年)4月23日には小十人頭に就任した。12月22日布衣の着用を許される。元禄10年(1697年)2月15日に目付に転じ、7月に切米を所領に改められて更に武蔵埼玉郡から300石を賜って都合700石を領した。
元禄14年(1701年)3月14日の赤穂事件の際には浅野内匠頭長矩の取調べと切腹の際の副検死役(正検死役は、庄田下総守)にあたったが、吉良上野介義央への刃傷のはっきりとした動機は聞き出せていない。しかしこの前後の浅野の様子を『多門筆記』に克明に記した。その著作による多門の自賛ではあるが、切腹に当たって庄田は浅野の取り扱いに冷たかったのに対し、多門は「吉良はどうなるのか」と聞きすがる浅野に「老人なので長くは持つまい」と声をかけるなどして思いやったとされる。 また最期に一目と望む浅野の寵臣片岡源五右衛門を主君長矩に目通しを許可したとも記している。 ただし「多門は赤穂側に肩入れしすぎるあまり、文飾や美化が多く見られる」とする見方も根強く、『多門筆記』のみに書かれているようなことには注意が必要である。
元禄16年(1703年)10月から防火の仕事に従事し、宝永元年(1704年)6月にはその功績で黄金三枚を賜った。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、1705年10月には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。享保8年(1723年)6月に死去。享年65。
[編集] 関連
カテゴリ: 江戸幕府旗本 | 元禄赤穂事件関係人物 | 1658年生 | 1723年没