庄田安利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
庄田 安利(しょうだ やすとし、慶安3年(1650年) - 宝永2年9月5日(1705年10月22日))は、江戸時代前期の旗本。幕府大目付。浅野内匠頭長矩の切腹にあたって検死役正使をつとめたことで有名。幼名は万千代(まんちよ)。通称は三左衛門(さんざえもん)、小左衛門(こざえもん)。官位は従五位下下総守(しもうさのかみ)。
旗本庄田三大夫安勝(3,000石)の長男として誕生。母は旗本小幡勘兵衛景憲の養女。万治元年(1658年)8月8日、はじめて将軍徳川家綱に拝謁する。寛文7年(1667年)11月21日、御小姓組の番士となり、寛文9年(1669年)7月10日、父安勝の死に伴い、庄田家の家督を相続。遺領3,000石のうち400石を弟庄田五郎左衛門安議に分知したため、安利は2,600石を知行した。
寛文11年(1671年)6月5日より進物役を務め、天和元年(1681年)6月18日、将軍徳川家綱の正室伏見宮顕子女王御霊屋普請の功績で時服三領、羽織一領及び黄金三枚を賜る。天和3年(1683年)3月11日、本所奉行に就任したが、12月25日に辞職。貞享元年(1684年)12月27日、勤勉な勤仕をほめられて黄金五枚を賜った。貞享2年(1685年)7月23日、御使番に転じて、10月19日には目付に代わって日光東照宮に赴いた。のちしばしばこの役目を任せられている。12月28日には布衣の着用を許された(六位相当になったことを意味する)。
元禄5年(1692年)5月28日、先に美濃国八幡藩(群上藩)主の遠藤岩松常久(2万4,000石)が7歳で死去し、無嗣で遠藤家が1万石に減知されたため城を召し上げられることとなったが、このとき安利が美濃群上に赴き城受け取りの役をつとめている。元禄7年(1694年)正月11日、西の丸留守居役に就任し、12月18日には従五位下下総守に叙任。そして元禄12年(1699年)12月15日に大目付に就任した。
その在任中の元禄14年(1701年)3月14日、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が高家肝煎吉良上野介義央に対して殿中刃傷に及んだため、田村右京大夫建顕の屋敷にお預りの身となり、即日切腹と決定したが、この際に長矩切腹の検死役正使に庄田が選ばれ、副使の目付多門伝八郎重共・大久保権左衛門忠鎮とともに田村邸へ赴いた。この役目にあたって多門伝八郎は浅野を気遣ったが、庄田下総守は長矩を冷たく扱い、庭先で切腹させるなど厳しい態度で臨んだといわれる。これが彼のエリートコースを破局させるきっかけとなった。
その後、世間の浅野びいきが高まったせいか、幕府は8月21日になって庄田下総守を奥高家大友近江守義孝(吉良義央の部下)・書院番士東条冬重(吉良義央の実弟)など吉良義央に近い旗本達とともに「勤めがよくない」などと咎め、庄田は大目付から解任されて小普請入りにされてしまう。その後も庄田が役職に就任する事はかなわず、宝永2年(1705年)9月5日に失意のうちに死去した。享年56。法名純真。妻は菅沼摂津守定実の娘。彼女との間の嫡男庄田安通が庄田家の家督を相続した。
幕府が赤穂浪士に対する同情論の高まりに対し、庄田安利をスケープゴートにしてその批判の矛先を反らさせたと考えるのが当を得ているであろう。
[編集] 関連
カテゴリ: 江戸幕府旗本 | 元禄赤穂事件関係人物 | 1650年生 | 1705年没