大友貞宗
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大友 貞宗(おおとも さだむね、? - 1334年1月9日(元弘3年/正慶2年12月3日))は鎌倉時代末期の武将。大友氏の第6代当主。父は第4代当主・大友親時。母は戸次親時の娘。子は大友貞順、大友貞載、大友宗匡、大友則宗、大友氏泰、大友氏宗、大友氏時など。官位は従四位下。近江守。左近大夫将監。
応長元年(1311年)、兄の大友貞親が死去したため、その後を継いで当主となる。鎌倉幕府が派遣していた鎮西探題・北条英時(赤橋英時)に仕えて元弘3年/正慶2年(1333年)3月、後醍醐天皇の密命を受けて攻めてきた菊池武時を英時や少弐貞経らと共に敗死させた。その後も九州における討幕軍の追討に務めたが、同年5月に足利尊氏らによって京都の六波羅探題が攻略され、討幕軍優勢が九州にまで伝わると、貞宗は貞経や島津氏らと共に英時から離反してこれを攻め殺した。その功績により豊後国の守護職を与えられたが、同年12月3日に京都で急死した。死後、家督は子の大友氏泰が継いだ。
その突然の死には、英時の亡霊による祟りという噂もあった。
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