大崎合戦
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大崎合戦(おおさきかっせん)とは、天正16年(1588年)1月に起きた伊達政宗と大崎義隆による戦い。
[編集] 詳細
- 伊達政宗は、出羽の最上義光、会津の蘆名義広、常陸の佐竹義重ら敵対勢力に領地を囲まれていた。
- 政宗は状況を打破すべく、同じく伊達家と敵対する大崎家が近年弱体化している事に目を付け、攻め込む機会を狙っていた。やがて大崎義隆の寵童同士による争いが起きると、それぞれの寵童を通じ主君義隆へ近付こうとする家臣たちの思惑から、大崎家中を二分する騒動は内紛へと発展してしまう。
- 事態を重く見た大崎家重臣氏家吉継は、奥羽で確固たる力を保持する伊達家に争いを鎮めて貰おうと願いを出すと、大崎家を攻める機会を得た政宗は快諾する。
- 大崎家内紛の鎮圧という名目を得た政宗は、重臣の浜田景隆、留守政景、泉田重光、小山田筑前守ら約10000人(5000人とも言われる)の兵を大崎家へ送る。
[編集] 伊達軍の苦戦
- 大崎家は伊達勢と正面から戦える力はなく、居城の中新田城に籠城するしかなかった。
- 2月2日、伊達軍は中新田城に攻め寄せるが、城の周りは深田による湿地帯で囲まれており、軍勢を動かすには難しい土地であり、また大雪により身動きが取れなくなった伊達軍は撤退を余儀なくされた。
- この撤退により、城の囲みを解いた伊達軍を見た大崎軍が城から討って出た為、伊達軍は苦戦を強いられる。
- 追い打ちを掛けるように、伊達軍の大将の一人留守政景の岳父であり、大崎家を離れ伊達家に属していた黒川晴氏が、大崎攻めが開始されると、旧主大崎家へと寝返り伊達勢を散々に打ち破る活躍を見せる。
- また、大崎氏の支流である最上義光が5000人の兵を大崎家救援に派兵。更に、大内定綱が苗代田、伊達領南部に蘆名氏等の軍勢が侵入し、相馬氏が石川弾正を使い介入すると、南北より攻められる形となった政宗は窮地に立たされてしまう。
[編集] 和議
- 苦境に立たされた伊達勢は、留守政景の岳父であった黒川晴氏に仲介を頼み、大崎氏と和議を結び、ひとまず戦いを休止するも、大崎・最上勢と伊達勢の両軍勢は睨み合ったまま膠着状態を迎える。
- 5月になると、最上義光の妹であり政宗の生母義姫が戦場に現れ、両陣営の間に割って入るとどちらも手を出せず、和議を結んだ各陣営は帰国の途についた。