蘆名義広
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蘆名 義広(あしな よしひろ、天正3年(1575年) - 寛永8年6月7日(1631年7月6日))は戦国時代、安土桃山時代、江戸時代の武将。別名、盛重・義勝。
佐竹義重の次男で、天正7年(1579年)、白河氏の養子となるが天正15年(1587年)、蘆名盛隆の娘と結婚して蘆名義広と名乗り、蘆名氏二十代を継承する。しかし幼少であったために蘆名家臣団を掌握することができず、天正17年(1589年)、伊達政宗との摺上原の戦いで大敗し、常陸に逃れた。政宗が得た蘆名領は、豊臣秀吉により没収されたが、蘆名氏の再興は許されなかった。その後、秀吉から常陸江戸崎藩に4万5,000石を与えられる。この頃、「盛重」と改名したといわれている。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣が西軍に与したために所領を没収され、その後、父佐竹義重・兄義宣とともに秋田領に入り、仙北郡角館に1万6,000石を与えられた。
寛永8年(1631年)、病死。
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