大沢基宿
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大沢基宿(おおさわ もといえ、永禄10年(1567年) - 寛永19年1月25日(1642年2月24日))は江戸時代の旗本(大沢家当主)。大沢基胤の長男。生母は木寺宮。別名は基宥。通称は兵部、真松斎。官位は正四位下左近衛中将、兵部大輔。
父基胤とともに徳川家康に服属し、小牧・長久手の戦いなどに従軍する。天正16年(1588年)3月、従五位下侍従・兵部大輔に叙任される。関ヶ原の合戦後、遠江国敷知郡堀江村など六ヵ村で1550石を賜る。慶長6年(1601年)、従四位下に昇進する。慶長8年(1603年)2月12日、徳川家康の将軍宣下に際し、その式典のことを公家二条道康と相談する。事実上、高家として働いたものと考えられており、職務としての「高家」の始まりといえる。その後も朝鮮や琉球からの使者の謁見に際し、披露の役割を担当する。なお、江戸幕府が「高家」という職名を使用し始めるのは、元和・寛永期頃のようである。
一説には、慶長13年(1608年)12月24日、吉良義弥と大沢基宿は高家職に就任したという。なお、高家的な役割を担うようになった要因としては、基宿の生母の家柄を考えられる。木寺宮とは、後醍醐天皇の兄後二条天皇の子邦良親王を始祖とする皇族なのである。
慶長14年(1609年)9月23日右近衛少将に昇進する。その後、正四位下左中将にまで昇進する。慶長19年(1614年)6月28日、父基胤は死去、80歳であった。寛永9年(1632年)9月12日、隠居し、長男基重に家督を譲る。隠居後は真松斎と号する。寛永19年(1642年)1月25日、堀江において死去、享年76。
正室は一条信達の娘。四男二女あり。その他に養子一人あり。長男基重は大沢家を相続し、次男基定は公家持明院基久の養子となり、三男基成は分家して旗本になり、四男基近は分家して徳川頼宣の家臣になった。なお、大坂夏の陣に際し、持明院基久・基征父子は、豊臣秀頼を支持し、戦死していた。
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