大阪歌舞伎座
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大阪歌舞伎座 (かぶきざ)は、大阪市中央区(当時南区)難波千日前にあった歌舞伎劇場である。松竹の興行が行われていたが、経営はその傍系会社であった千日土地建物(千土地興行を経て日本ドリーム観光に改称)が行ってきた。千日前の角地に立地し、まだ高層建築物が少なかった当時の大阪で、地上7階建のビルディングは正面の巨大丸窓と共に異彩を放っていた。劇場自体はビルの1~4階部分を占め、東京・歌舞伎座よりも芝居が見やすく、スケールの大きな劇場として知られた。
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[編集] 関西歌舞伎の殿堂
東京・歌舞伎座を凌ぐ座席数と舞台設備を誇り、中村鴈治郎の人気も相まって、千日前楽天地の跡地にできたこの大劇場はまさに「関西歌舞伎の殿堂」と呼ぶに相応しい劇場であった。
それでも実質26年しかもたなかったのは、戦後関西歌舞伎が衰退の一途を辿り、大劇場の維持が困難になってきたためとされる。難波に新歌舞伎座を別途建設して移転する形で閉鎖されたが、移転後経営主体であった千土地興行は程なく関西歌舞伎の興行を打ち切った。現在、新歌舞伎座では歌手芝居を中心とした興行が行われており、大阪での歌舞伎興行は近年松竹の手により、年数回ではあるものの道頓堀・大阪松竹座で再開された。
[編集] 沿革
- 1932年(昭和7年) - 9月28日開場式、翌月こけら落し
- 1933年(昭和8年) - 6階にアイススケートリンクが設置される
- 1945年(昭和20年) - 10月、6階を改造し、特殊慰安所(キャバレー)が設置される。
- 1954年(昭和29年) - 12月、新国劇公演中にストライキ発生。芝居が中断される。(千土地人権争議)
- 1958年(昭和33年) - 1月、興行主体が松竹から千土地興行に代わる。
- 1958年(昭和33年) - 4月興行(「新国劇サヨナラ公演」)をもって廃座。
- 1958年(昭和33年) - 11月、千日デパートビルに改装
- 1972年(昭和47年) - 5月13日千日デパート火災。火災後、焼け跡が長期の間放置される。
- 1983年(昭和58年) - 取り壊し。
[編集] 構造
- 建屋:7階建(一部8階)地下2階
- 構造:鉄骨鉄筋コンクリート造
- 建築面積:3,549m²
- 座席数:3,000
[編集] その他
- 地階は映画館などが設置されたが、1956年に演芸場・歌舞伎地下演芸場に転換した。これは戎橋松竹の閉鎖に伴う代替処置であったが、寄席囃子が楽屋を伝って上階の歌舞伎座の舞台に洩れてしまうなどの欠陥が生じた。
- 5階は大食堂が設けられたが、1951年にアルバイトサロン(現在のキャバクラに相当)「ユメノクニ」が開場した。この他にも別の階に「歌舞伎キャバレー」なる店も営業された時期もあり、歌舞伎と風俗が同居する奇妙な形態となっていた。
- 6階はアイススケートリンクが設けられ、京都・河原町三条のスケートニュース映画館と神戸・新開地聚楽館とでチェーンが形成されていた。終戦直後に進駐軍向けの特殊慰安所に改装され、「ドリームランド」の名前で朝鮮戦争勃発時まで営業した。その後は「歌舞伎会館」という劇場に転換し、曾我廼家五郎劇(軽演劇)と漫才を上演していた。この劇場は千日デパートに転換後、演芸場の千日劇場になる。