戎橋松竹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戎橋松竹(えびすばししょうちく)は、かつて大阪市中央区(旧南区)に存在した演芸場。千土地興行(後の日本ドリーム観光)経営。終戦直後における大阪唯一の寄席として知られた。通称・戎松(えびしょう、えびまつ)
元来は映画館。戦前から吉本興業に対抗して幾度か演芸進出を図っていた松竹創業者で会長の白井松次郎が、1947年自ら経営する千土地経営の映画館・戎橋松竹を改装して演芸場に転換。漫談家・花月亭九里丸や5代目笑福亭松鶴の楽語荘の同人が中心となり演芸人が集合。開場時には久里丸のアイデアでかつて舞台役者が道頓堀での芝居興行初日の際に行った道頓堀川の「船乗込み」を模したイベントが催された。
戦後の上方落語界を支えた落語四天王(六代目松鶴(故人)・米朝・五代目文枝(故人)・三代目春団治)らが新人として修行を重ね、また爆笑漫才の中田ダイマル・ラケットやなど様々な芸人がこの劇場の舞台で腕を磨いた。東京からも幾人かの芸人が来演し、東西演芸交流の舞台ともなった。
定員は300名程度でバラック造りの小屋ながら、中店が存在し、二階事務所は東京から来演した芸人が宿泊したりしていた。
当初は完全入れ替え制でかつ全席指定席であった。これは東京の東宝演芸場に倣ったものだが、やがて客足が落ちると入れ替え制を撤廃し、団体客を入れるようになった。客層も変化してじっくり落語を演じるよりも、賑やかな色物が好まれるようになった。1951年以降は朝日放送と提携して、舞台中継が放送された。
1954年、支配人であった勝忠男は千土地を辞して独立を図り、戎橋松竹常連の一部の芸人を引き連れて新生プロダクション(後の松竹芸能)を設立。やがて、戎橋松竹はこの新生プロと千土地、そして現在のケーエープロダクションの母体とも言える秋田実の上方演芸に所属する芸人を主体として番組が組まれた。
しかし、近鉄と阪神が地下鉄として難波に延伸する計画が持ち上がり、戎橋松竹の周辺で工事が予定されていた事や、千土地自体、経営基盤確立のため千日前の大阪歌舞伎座を難波駅前の新歌舞伎座へ移転する事となり、その建設資金捻出のため1957年北海道拓殖銀行に敷地を譲渡して閉鎖された。
現在は跡地に難波近鉄ビルが建ち、地下は近鉄難波駅の構内となっている。
目次 |
[編集] 後継劇場
[編集] 歌舞伎地下演芸場
通称・歌舞地下。千日前・大阪歌舞伎座の地階にあった劇場で、元来は映画館。1957年1月戎橋松竹の代替劇場として開場したが、翌1958年4月大阪歌舞伎座閉鎖と運命を共にした。収容人数は3~400人程度であるが、客席の中央に柱が存在していたり、寄席囃子の音が楽屋を伝って上階の歌舞伎座の舞台にまで漏れてしまうなど、構造上問題があったといわれている。
[編集] 京洛劇場
京都・新京極の六角通りにあった劇場。戦前はニュース映画を主体とした京洛映画劇場として、アイドホールを用いた擬似テレビジョン公演などを行った。戦後、邦画の二番館となっていたが、1958年5月演芸場に改装。千土地所属の芸人を主体に演芸が興行された。千日劇場の開場後、暫くして映画館に再度転向。洋画封切や名画座として興行を続けたが、1967年1月一杯で閉鎖。キャバレーになる。なお、1969年10月から1年間は東映封切館として復活していた。現在は廃業して建物は取り壊され、駐車場となった後、京都六角ビル建設予定地となっている。
[編集] 千日劇場
千日前・大阪歌舞伎座を改装した千日デパートの6階に開場した劇場。1958年11月開場。1969年3月一杯で閉鎖。
(千日劇場の項を参照のこと。)