天神真楊流
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天神真楊流(てんじんしんようりゅう)とは、磯又右衛門正足が開いた柔術の流派。 講道館柔道の基盤となった流派として知られる。
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[編集] 流儀の歴史
流祖の正しい名乗りは磯又右衛門柳関斎源正足(いそ またうえもん りゅうかんさい みなもとの まさたり)、伊勢国松坂の人。(文久3年・1863年頃没) 楊心流(秋山楊心流)とその分流である真之神道流を修めた。 江州草津にて門人 西山 某と100余の相手に戦った際、実戦に於ける当身の有効性を「真の当」として工夫、天神 様(菅原道真を祀る太宰府天満宮ではなく、同じく道真公を祀る京都の北野天満宮)にて「楊柳の風に靡くさまを観て大悟」し、以前、自分が学んだ二流の名(楊心流と真之神道流)を合一して天神真楊流と号した。
磯又右衛門正足が江戸の神田於玉ヶ池に道場を構えると、同地にあった北辰一刀流千葉周作 邸宅の斜め向かいに道場があることから、両流門弟達の交流は盛んであったという。
明治に入り、講道館柔道の創始者嘉納治五郎は同流師範の福田八之助の道場に入門するも同氏の死去により、三代目 磯又右衛門正智の処で学びなおした。又、西郷四郎、横山作次郎などの講道館草期の面々も三代目 正智の高弟である井上道場の出身であり、講道館柔道の母体であることもあって、講道館と交流のある流儀であった。
[編集] 技術的特徴
江戸末期の流儀。武術(古流)では比較的新しい流派である。その名(天神真楊流 柔術)の通り兵法や腰之廻り等の総合流派ではなく、柔術を基本とする単独技術形態の流派である。
技術的特徴としては、楊心流の特徴である、絞め技と急所に対する当身技法や整骨・活法技術。又、楊心流分派の真之神道流よりは、初段・中段・上段と級格を定めた教授理論を採用した。特に楊心流より伝わる「真之位」と呼ばれる独特の構えを尊び、その極意を基本の形より始まり、極意の形にて終わる「循環の理」として組み込み、独自の技術体系に編成している。
[編集] 系譜(宗家のみ)
*家元議定書により、家元制の内容を明確に規定した珍しい流儀である。
- 流祖 磯又右衛門正足⇒本名 岡本八郎治。幕臣、磯家の養子。講武所の柔術の師範。幕府より源を本姓とする事を許される。
- 二世 磯又右衛門正光⇒磯又右衛門正足の実子。戌辰戦争に幕軍として参加し戦死(享年17)。
- 三世 磯又右衛門正智⇒磯又右衛門正足の高弟。養子。1882年頃没。嘉納治五郎の手記によれば体格は単身痩躯。
- 四世 磯又右衛門正信⇒磯又右衛門正智の高弟。
- 五世 磯又右衛門正幸⇒磯又右衛門正智の実孫。明治26年、『天神真楊流柔術極意教授図解』を出版。1945年頃没。
現在、磯 宗家は絶家。当時、師範だった幾つかの系統がこの術理を伝えている。
[編集] その後の磯家と天神真楊流柔術
五世 磯又右衛門正幸は1943年 頃、太平洋戦争の空襲により、長らく住み慣れた神田お玉ヶ池の自宅(旧称:東京府東京市神田区於玉ヶ池松枝町9番地)から疎開先の神奈川県横浜近郊に転居。終戦を迎えることなく彼の地で没した。尚、実子に又一郎と三郎がいたが戦争期の混乱(正確な死因は不明)により、府中市(分倍河原)近郊でその足取りは掴めなく消息は不明。 故に磯家の宗家としての命脈はここに絶え、現在では当時師範だった幾つかの系統がこの術理を伝えている。