太田静子
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
太田 静子(おおた しずこ 1913年8月18日 - 1982年11月24日)は滋賀県出身の歌人、作家。太宰治の愛人の一人。『斜陽』に材料を提供したことで知られている。作家太田治子の母。
滋賀県愛知郡愛知川町(現:愛荘町)にて、開業医太田守・きさの四女として誕生。愛知川高等女学校卒業後、上京して実践女学校家政科に進む。上京直後から口語短歌を作り、1934年、口語歌集『衣裳の冬』を芸術教育社から刊行。
文学青年だった実弟太田通の勧めで内密に国文科への転科手続を進めていたが、郷里の父母に露見して叱責を受け、1年の中途で実践女学校を中退。父母による帰郷要請を拒んで東京に残り、弟と同居しつつ前衛的な詩歌や小品文を創作。傍ら、画塾や琴の稽古にも通った。このころ、フランス帰りで38歳になる独身の画家と恋をしていた。
1938年5月、父が死去。1938年11月、実弟太田武の友人計良長雄と結婚。1939年11月、長女満里子を産むも、1ヶ月足らずで早世。1940年2月、協議離婚。
実家に帰ったとき、太宰の愛読者である弟通の勧めで太宰の『虚構の彷徨』を読む。この後、長女の死にまつわる日記風告白文を太宰に送ったところ、思いがけず「お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい」という返事を貰い、2人の女子大生と共に東京三鷹の太宰宅を訪問。既婚者の太宰と恋に落ちる。
太宰との関係が深まるにつれて太宰夫人美知子から疑惑の目を向けられるようになったため、太宰の窮余の一策として、太宰の門人堤重久との逢引を世話されたこともあるが、静子は「結婚を考えない男の方とおつきあいしたくない」と拒絶した。
1943年秋、神奈川県足柄下郡下曾我村の山荘「大雄山荘」に疎開。1944年1月、大雄山荘で太宰と再会。
1947年1月6日、3年ぶりに太宰と再会。小説の題材として日記の提供を依頼され、「下曾我までおいでになったら見せます」と返答。1947年2月21日から2月24日まで太宰を下曾我に迎える。約束通り日記を提供、この日記が『斜陽』の材料となった。このとき太宰の子を受胎する。
1947年5月24日、生まれてくる子の相談で通と共に三鷹の太宰宅を訪問。太宰からの冷たい態度に傷つき、自分に接近してきたのは小説の材料だけが目当てだったのではないかとの疑念を抱く。このとき、山崎富栄と鉢合わせする。
1947年5月25日、肝心の相談から逃げまわる太宰の態度に対して涙ながらに抗議。静子をモデルに描いた太宰作の油絵を贈呈されて下曾我に帰る。この日が、生きた太宰を見た最後となる。
1947年11月12日、太宰の子を出産。11月15日、弟通が三鷹を訪れ、太宰に新生児の命名と認知を願い出る。太宰は「この子は/私の可愛い子で/父をいつでも誇つて/すこやかに育つことを念じてゐる」との認知書を認めた上、自らの名前から一字採って治子と命名。静子の側は、太宰の子を産んだために親類縁者から義絶を受けたが、太宰からは月額1万円の養育費を送られることを約束された。
1948年6月13日、太宰が愛人山崎富栄と入水自殺。1948年8月1日、井伏鱒二たちの訪問を受け、「太宰の名誉作品に関する言動を一切慎む」という内容の誓約書を取られ、その引換に『斜陽』改装版の印税10万円を渡される。しかし津島家からの冷遇に耐えかね、1948年10月、この誓約を破る形で『斜陽日記』を刊行。この日記の内容に『斜陽』と重なる部分があまりに多かったため、太宰死後の捏造ではないかとの説を唱えられて悲しんだ。
1950年11月、『あはれわが歌』をジープ社から刊行。以後は炊事婦や寮母として生計を立て、津島家からの差別待遇に苦しみながらも、静子の男きょうだいらの支援・協力も得て娘・治子を育て上げた。
晩年肝臓癌、しかも当時の医療では手のつけられない状態であったことが発覚。手術・治子らの看護むなしく1982年11月24日、69歳で死去。