奴奈川姫命
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奴奈川姫命(ぬなかわひめのみこと)とは、古事記等に登場する高志(越)の女神である。八千矛神(大国主命)の妻で、建御名方神の母とされる。沼河比売(古事記)、奴奈宜波比売命(出雲国風土記)、高志沼河姫(旧事本紀)とも表される。なお、日本書紀には登場しない。
出雲から奴奈川姫命の評判を聞きつけた八千矛神が姫の元を訪れ、歌を交わし、翌晩に結婚する。能登に移り一子(建御名方神)をもうけるが、高志に戻る。古事記ではそれ以降について記されていないが、地元には多くの伝承が残る。
現在の新潟県糸魚川市(旧・西頚城郡沼川郷)を支配していた古代女王で、糸魚川や青海地方の特産品である祭祀具・翡翠を支配する巫女であったと推定されている。個人名ではなく「奴奈川」(新潟県西頸城郡の姫川と推定)地方の代々の女王を指す可能性もある。大国主命との結婚譚は、古代出雲族と奴奈川族との同盟をあらわすものだとも推測されている。
[編集] 高志(越)のヒスイ
ヒスイは八尺瓊(八坂瓊:やさかに)の名が示すように、古くは瓊(ぬ)、沼名玉(ぬなたま=ぬのたま)、青玉、玉(たま)などと呼ばれた。翡翠は後世、中国から入ってきた言葉であり、カワセミを指す「翡翠」が同色のヒスイにも当てられるようになったもの。
古代日本には新潟・富山の県境付近で採れるヒスイを使った玉文化が存在し、卑弥呼の後を継いだ台与が、3世紀頃、魏に朝貢した青大勾珠はヒスイ(硬玉)であったと見られている。出雲大社には当地方のヒスイの勾玉が祀られ、新潟県中越地方の海岸沿いには出雲崎の地名が残る。姫川下流の丘陵地にある縄文時代中期の長者ヶ原遺跡からは、ヒスイの大珠や勾玉、加工道具、工房跡などが昭和20年代から続々出土。青森県の三内丸山遺跡からも、良質な糸魚川産ヒスイでつくられた大きな玉が発掘されている。500kmも離れた青森県へは、海道を使って運ばれたと推測される。古代人に装飾品として愛用されたヒスイは、この糸魚川地方から全国に行き渡っていたことも明らかになっている。
ヒスイには「硬玉」と「軟玉」があるが、硬玉は日本では唯一糸魚川だけ、世界的に見てもミャンマーとここの二箇所でしか産出されない。その為、全国で出土されるヒスイ(硬玉)は糸魚川から伝わったものであると推測される。
しかしなぜか奈良時代以降、採掘はされず鉱床は放置されたままであった。昭和13年に再発見されるまで、ヒスイは中国からの輸入品であった。これは大きな謎とされるが、まつろわぬ民によって祭祀に使用されていたことも関連しているともいわれる。
『ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が老ゆらく 惜しも』万葉集(巻13-3247)
- この玉はヒスイを指し、大国主命と奴奈川姫命の相聞歌を下敷きにしているとされる。
[編集] 関連項目
- 姫川…奴奈川姫命が名前の由来。
- 居多神社…祭神とされる。
- 天津神社 (糸魚川市)…式内社の奴奈川神社の祭神とされる。
- 諏訪大社…祭神・建御名方神とともに祀られる八坂刀売命は、一説に奴奈川姫命とされる。