駅弁大学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
駅弁大学(えきべんだいがく)とは、太平洋戦争後のGHQ指導下で行われた学制改革により、「一県一国立大学化」が実現され、各地方に国立新制大学が急増した状況に対する評論家の大宅壮一(1900~1970)の諷刺から派生した言葉である。昭和年間にはしばしば蔑称として使われた。もともとは東大出身(正確には中退)である大宅が他大学を蔑視したものであったが、近年では匿名の掲示板などで国立大学を攻撃する場合にしばしば使われている。
背景
戦前のいわゆる旧制大学は、1877年にお雇い外国人により国際的学問水準を確保した旧制東京大学が東京に設立され、1886年の帝国大学令によって、旧制東京大学は唯一の総合大学である帝国大学となった。この帝国大学令が根拠となって複数の学部(分科大学)を有する帝国大学だけが官立の大学として設置を許されることになり、その後、東京の組織を手本に京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)、九州帝国大学(1911年)、北海道帝国大学(1918年)、大阪帝国大学(1931年)、名古屋帝国大学(1939年)が各地に誕生し、本郷の帝国大学は「東京帝国大学」と改称された。なお、その頃すでに1903年にはいくつかの一定水準に達した専門学校が専門学校令による私立大学として高等教育にあたっていたが、学位の授与はなく、実業家などの子息がその財力を頼みに進学する先であり、水準は必ずしも高くなかったとされる。
その後第一次世界大戦の好景気を背景に高等教育機関の拡充が叫ばれ、その結果1918年に公布された大学令によって官立、公立の単科大学と私立大学の設置が正式に認められた。これにより、有力な官公立の専門学校と十分な基本財産を持つ私立専門学校が旧制大学として順次昇格していった。しかし、双方をあわせてもその進学率は同世代の男子の数%に過ぎなかった。
ところが戦後になると、軍部の独走を阻止できなかった原因のひとつとして健全な知識階級の絶対数の不足が指摘され、再び高等教育機関の大拡充が行なわれることになった。しかし、それは敗戦直後のハイパーインフレ下という最悪の環境下で行われたため、大学新設は質的向上をもたらさず、結局全国の専門学校が一斉に看板を新制大学に架け替えるという「移行」にとどまった。
その結果、「国鉄の急行停車駅ごとに大学がある」と評されるほどに、全国各地で国立大学が急増した。大宅はこれを諷して「急行の止まる駅に駅弁有り、駅弁あるところに新制大学あり」と発言したとされる(埼玉大学のある旧浦和市の中心駅浦和駅には、急行列車は止まらなかった)。
定義
大宅がどの大学を指して「駅弁大学」としたのかに関しては明確ではなく、彼は大学名を名指してこの大学は駅弁だと揶揄したことはなかった。
どこまでの新制大学が駅弁大学なのかは諸説ある。 ただ、大宅が旧神戸商業大学に対し「財界の士官学校」といった表現を使っていることから、その他の官立大学(戦前の国立大学)についても彼は「揶揄する意味での」駅弁大学とはみなしていない可能性が高い。 旧東京教育大学なども駅弁大学ではないであろう。
旧制大学を母体としておらず、戦後に旧制高等学校や旧制高等専門学校などを母体として大学に昇格した新制大学を指すという説もあるが、旧制高校や高専の大学移行は戦前から漸次実施もしくは計画されており(例えば医科専門学校から医科大学への移行など)、この説は正しいとは言えない。
「東京都以外に所在し」かつ「法学部・医学部がなく」(ただし、近年医学単科大学と合併したところを除く)かつ「教育学部、経済系学部や工学部が中心」の国立大学を指すと考えるのが妥当ではないかという説もある。