学校法人獨協学園
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学校法人獨協学園(がっこうほうじんどっきょうがくえん)は、埼玉県草加市にある学校法人。
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[編集] 沿革
当時の西洋文化の中心であるドイツ文化を取り入れるため、国策で1881年9月18日、獨逸学協会(Verein für deutschen Wissenschaften)が麹町に設立された。国策機関ということもあって初代総裁は北白川宮能久親王が就任している。1883年には獨逸学協会学校(現獨協学園)が開設された。
初代学長の西周や加藤弘之ら、当時の啓蒙学者が設立に関与、ドイツ啓蒙主義を基礎とした学校であった。また、設立メンバーには井上毅・青木周蔵・桂太郎らも名を連ねている。だが、学校運営を中心的に担っていたのは品川弥二郎である。
当時は、ドイツの法律や政治を学ぶための専修科を擁しており、明治期九大法律学校の一つに含まれていた。しかし、後に専修科は、教授陣や教育課程がそのまま東京大学獨法科として移され、廃止されてしまう。
やがて、大正時代に入り第一次世界大戦でドイツとの戦争を開始すると、その影響によって一部からは廃校論が出た。更に第二次世界大戦後には旧来のドイツ式の法体系や文化が英米式に取って代わるようになると存在意義も疑われる状況となってしまう。まずは1947年に財団法人獨逸学協会を財団法人獨協学園へ、また獨逸学協会学校を獨協中学校と名称変更する。この際、「獨協」の意味する内容を獨逸学協会の略称としての「獨協」から獨立協和の略語としての「獨協」と読み替えることにした。しかし、法人内での分裂騒動や教員生徒と法人の対立など学校の再建はなかなか進まなかった。危機感を募らせた獨逸学協会学校出身の天野貞祐が1952年に獨協中学校・高等学校長に就任すると学校再建が本格的に動き出すことになる。中学校および高等学校の再建に目処が立った1964年に獨協大学が設置され、中学校から大学までの教育体制が整うこととなった。
[編集] 設置学校
- 獨協大学
- 大学院
- 法科大学院
- 獨協医科大学
- 大学院
- 看護専門学校
- 大学病院
- 大学越谷病院
- 大学日光医療センター
- 姫路獨協大学
- 大学院
- 法科大学院
- 獨協中学校・高等学校
- 獨協埼玉中学校・高等学校
[編集] 所在地
- 埼玉県草加市学園町1-1