安史の乱
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安史の乱(あんしのらん)とは、756年から763年にかけて、唐の節度使・安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。
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[編集] 背景
安禄山は西域の出身で、貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。
[編集] 安禄山の挙兵と即位
李林甫の死後、安禄山は楊貴妃の従兄である楊国忠と対立し、その身に危険が迫ると、史思明等の進言を入れて、756年についに挙兵した。
当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。さらに、唐の国軍の大部分は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山率いる反乱軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。
ここで安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り、さらに長安へと侵攻を開始。あっという間に唐の国軍を破り、玄宗は蜀(現在の四川省)に逃亡する。その途中の馬嵬で楊国忠は安禄山の挙兵を招いたとして玄宗に従い逃走する途中で息子の楊暄・楊昢・楊曉・楊晞兄弟と共に父子揃って兵士に殺害された。その挙句に、楊貴妃は兵士に楊国忠と同罪であるとしてその殺害が玄宗に対して要求され、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって絞殺された。
失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武で粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。
[編集] 反乱の終結
一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近達の反発を買い、殺害されてしまう。
安慶緒は父の後を継いで皇帝となるも、そもそもその資質に問題があり、史思明等の重臣達の反発を買い、特に史思明は范陽に帰って自立してしまう。この反乱勢力の分裂を好機と捉え、757年粛宗等はウイグル(ウイグルの皇太子葉護ら)の加勢を得て広平王を名目上の総司令とし僕固懐恩、郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫り、新店で反乱軍を撃破し、長安を奪い返し、安慶緒は洛陽に逃亡する。
この状況を見た史思明は唐に降伏するも、上皇となった玄宗や彼に近い要人達が自分の殺害を計画していることを知ると、降伏を撤回し、759年、洛陽の安慶緒を攻め滅ぼして、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし、史思明も安禄山同様、息子の史朝義との不和から、761年に史朝義に殺害されてしまう。
この頃から、反乱勢力は内部分裂を起こして弱体化。これを好機と捉えた唐王朝は再び攻勢をかけ、反乱軍を各地で撃破。情勢の立て直しを図る史朝義は洛陽を捨て、范陽に逃れんとするも、763年、唐から范陽節度使に任ぜられた李懐仙の軍に敗れ、その生涯を閉じた。
[編集] 反乱の影響
この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、ウイグルの援軍を得て乱を鎮圧した(実質的にウイグルの援軍なしには乱の平定はありえなかった)ために、外交上および通商においてウイグルの優位が確定的になり、対ウイグルの貿易は大幅な赤字となり、国家財政をも圧迫するにいたった。
また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。 これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(「河朔三鎮」)。 以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。
更にこの反乱の影響は海外にも及んだ。例えば、日本では天平宝字2年(758年)渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じている(『続日本紀』同年12月10日条)。更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が恵美押勝の乱で処刑されたために新羅征討は中止された)。