宗義暢
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 寛保元年6月27日(1741年8月8日) | |||
死没 | 安永7年1月5日(1778年2月1日) | |||
別名 | 直丸、槌之介、直之介(幼名)、如資(別名) | |||
戒名 | 真常院 | |||
墓所 | 長崎県対馬市国分の万松院 | |||
官位 | 従四位下、侍従、対馬守 | |||
藩 | 対馬府中藩主 | |||
氏族 | 宗氏→真如氏→宗氏 | |||
父母 | 父:宗義誠、母:佐伯市左衛門の姉・清樹院 養父:真孫数馬のち宗義蕃 |
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兄弟 | 宗義暢、浅井如英、俵如泰 樋口暢朝、樋口暢英、浅井暢謙 |
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妻 | 正室:松平頼恭の娘・貞心院 側室:大庭寿右衛門の妹 竹末利左衛門の姉・テヲ、西川新六の娘 永留藤右衛門の娘・織江(瑞祥院) |
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子 | 宗義功、宗義功、種寿 |
寛保元年(1741年)6月27日、第8代藩主・宗義如の三男として生まれる。延享3年(1746年)12月、真孫数馬の養子となり、その家督を継いだ。のちに第9代藩主・宗義蕃の養子となる。宝暦12年(1762年)閏4月28日、義蕃が隠居したため、家督を継いで第10代藩主となった。
しかし藩政の実権はなおも義蕃が握っていた。5月には第12代将軍・徳川家治に謁見して従四位下、侍従・対馬守に叙位・任官する。この頃の対馬府中藩では藩財政が窮乏して朝鮮通信使の接待費用すら幕府より援助を受けるほどであり、そのために倹約の強化や幕府の補助金援助、さらに参勤交代を3年1度に短縮されるなどの措置もとられたが、藩財政は再建されなかった。しかも家臣の鈴木伝蔵が朝鮮の使者である崔天宗を殺害するという事件も起こるなど、藩の混乱も助長された時代であった。
義蕃の死後、藩政の実権を握ったが、安永7年(1778年)1月5日に死去。享年38。後を四男の宗義功(猪三郎)が継いだ。
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