松平頼恭
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 正徳元年5月20日(1711年7月5日) | |||
死没 | 明和8年7月18日(1771年8月28日) | |||
別名 | 大助、帯刀(幼名) | |||
諡号 | 穆公 | |||
官位 | 従四位下、侍従、讃岐守、左近衛権中将、 参議 |
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氏族 | 水戸徳川家御連枝 | |||
父母 | 父:松平頼貞 母:松本タミ 養父:松平頼桓 |
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兄弟 | 松平頼尚、松平頼寛、松平頼恭、 松平定賢、松平頼済 |
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妻 | 正室:細川宣紀の娘・八代(清操院) | |||
子 | 松平頼真、松平頼起、松平頼周 嘉代(酒井忠以室)、娘(徳大寺公城室)、 娘(戸沢正産室、後に堀直教室) 元(宗義暢室)、娘(小笠原長堯室) 娘(松平武寛室)、能(堀田正順室) 長(前田重熙婚約者) |
松平 頼恭(まつだいら よりたか)は江戸時代の大名。讃岐高松藩主。
陸奥守山藩主松平頼貞の五男として生まれる。高松藩四代藩主松平頼桓の養子となり、元文4年(1739年)、29歳でに藩主に就任する。
当時の高松藩は元からの水不足に加え、火災が多発し、凶作が続いていたため財政が苦しくなっていった。これを打開するために頼恭は質素倹約を実行し藩士への禄を減らして財政再建を目指した。しかし、その後も凶作が続き、藩札を発行するなどの対抗策を行ったがこれらはあまり効果が無かった。そこで藩の収入を上げるため、頼恭は家臣の平賀源内に命じて薬草の栽培を行わせた。また当時は高価な貴重品であった砂糖栽培の研究も行っている。さらに塩田を切り開いて塩の増産を図る努力をした。また、領民の声を聞くため投書箱を設置した。
このように藩政に尽力した頼恭を高松藩中興の藩主として領民は称えた。明和8年(1771年)に61歳で死去し、後を長男の松平頼真が継いだ。
[編集] 逸話
頼恭は本草学に詳しく、参勤交代の途中で大阪に立ち寄る時に源内に命じて薬草を探させ、幾日も滞在して参勤の費用が多くなってしまったという。また、源内が田沼意次に召し出されると知った頼恭は大変怒り、今後、平賀源内を召し抱えることは絶対に認めないという内容の回状を全大名に回したといわれる。
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