宮城町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
宮城町(みやぎまち)は、1963年から1987年まで、宮城県宮城郡の西部にあった町である。1955年に広瀬村と大沢村の合併による宮城村として成立し、1963年に町になった。町の名は郡の名をとったものである。1987年に仙台市に編入され、現在は同市青葉区の西部を構成している。
目次 |
[編集] 地理
宮城町は、宮城県中部、宮城郡西部、広瀬川の上・中流域、仙台市の西隣にあった。町域は大部分山林で、広瀬川沿いの段丘と支流沿いに平地があった。河岸段丘である盆地が支流の芋沢川流域にあり、水田が作られた。これに匹敵する平地は対岸の愛子(あやし)にあったが、肥沃とはいえない地質であった。
町役場は愛子に置かれ、その辺りが町の中心市街であった。川にそって国道48号(作並街道、関山街道)が東西に通り、仙台と山形を結ぶ交通の要地であった。広瀬川上流に作並温泉があり、支流の大倉川流域には定義如来があって、全国各地から訪れる人が多かった。
1967年の土地利用 | |
地目 | 比率 (%) |
山林原野 | 87.36 |
畑 | 2.41 |
田 | 2.35 |
採草地 | 1.44 |
宅地 | 0.42 |
その他 | 6.02 |
[編集] 隣接していた自治体
[編集] 歴史
宮城村の成立は、町村合併促進法にもとづき、宮城県が提案した案による。1955年2月1日に、広瀬川の南側にある広瀬村と、北側にある大沢村が合併して宮城村になった。村の名は郡の名をとったもので、これ以前に宮城村が郡内の他地域をおいて宮城と呼ばれたことや、郡の中心地が宮城村に置かれたことはなかった。4月1日に名取郡秋保村から新川川流域の新川と奥新川を譲られた。新川川は広瀬川の支流なので、これによって広瀬川上・中流域がほぼ一つの村にまとまったが、なお秋保村に属する箇所も一部あった。村役場ははじめ大沢村役場を用いたが、翌年5月3日に上愛子の蛇台原にある新築の建物に移った。
1963年に宮城町になった。仙山線沿線の仙台市郊外として、宮城町の人口は急速に増加した。事務量が増えて今までの役場が手狭になったため、1979年5月28日に新築の建物に移った。
1975年11月3日に、町の木にウメ、町の花にミヤギノハギ、町鳥にヤマドリ、町の「その他の生物」にカジカガエルが選定された。
1987年11月1日に、合併推進派と反対派の激しい対立の中で仙台市との合併が実施された。これは政令指定都市をめざす仙台市が周辺市町村に働きかけて進めた合併の一環で、宮城町議会は6月15日に、日本共産党の議員を除く多数で合併することを決議した。このとき合併反対派は住民投票を請願したが議会に却下された。ついで議会のリコールを求める6896名の署名(必要な署名は有権者の3分の1で6570名)を7月29日に提出したが、選挙管理委員会は、転入してからの期間が短い町民の署名など無効が411名分あるので78名不足と判定した。あらためて9月18日に7309名分を再提出し、必要数6667名に対して7103名分の署名が認められた。合併推進派議員はこの署名に異議を申し立てて引き延ばしを図り、11月1日の合併成立で逃げ切った。町議会が消滅したためリコールは空振りにおわり、宮城町の議員はそのまま仙台市の議員になった。
合併後の旧宮城町東部では、仙台市内の郊外住宅地として人口が大きく増加したが、西部では人口の過疎化が進んだ地区も多い。旧宮城町の領域をひきつぐ仙台市青葉区宮城総合支所管内の人口は、2005年に6万2981人と合併当時の2倍以上に増加している。
[編集] 村長、町長
- 庄子長吉 (1955年3月11日 - 1959年3月10日)
- 蜂谷富四郎 (1959年3月11日 - 1963年3月10日)
- 庄子長吉 (1963年3月11日 - 1964年11月24日、1964年12月27日 - 1972年12月26日)
- 白石今朝松 (1972年12月27日 - 1976年7月3日)
- 庄子守 (1976年8月22日 - 1987年10月31日)
[編集] 産業
産業別就業者比(%) | |||
1960年 | 1970年 | 1980年 | |
第一次産業 | 51.7 | 26.2 | 22.1 |
第二次産業 | 31.3 | 26.7 | 42.0 |
第三次産業 | 9.5 | 28.5 | 62.0 |
20世紀半ばまで農業に従事する人が多かったが、副業も盛んであった。広い山林で林業が行われた。川沿いの平地では水田と畑を半々に農業を営み、米、麦、豆、野菜を作った。町内で広瀬川は深い谷を流れるため、用水は支流と溜め池に仰いだ。大倉ダムができると大倉川下流はこのダムの水で潤った。
蒲沢鉱山で砂鉄とチタンが採掘・精錬された。他に6か所で亜炭が採掘された。亜炭の炭鉱は1968年に閉山になった。
1960年代から中小の工場が多く立地した。従業員100人以上の大工場としては、ニッカウヰスキー仙台工場(宮城峡蒸留所)と、白松がモナカ本舗宮城工場があった。
[編集] 交通
[編集] 鉄道
[編集] 道路
作並街道(関山街道)が、仙台と山形を結ぶ街道の一つとして江戸時代から利用された。今の国道48号に相当し、町内でもっとも重要な道路であった。