富田重政
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富田 重政(とだ しげまさ、天文23年(1554年) - 寛永2年(1625年))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。前田氏の家臣。父は朝倉氏の家臣で、富田流の門人だった山崎景邦。正室は宇喜多秀家と前田利家の娘・豪姫との間に生まれた娘。または富田景政に富田流を学んでいたとき、景政に気に入られてその婿養子となったと言われるため、景政の娘とも言われている。官位は越後守。
幼名は六左衛門。前田利家の家臣として仕え、1583年の能登国末森城の戦いでは一番槍の武功を挙げたことから利家の賞賛を受け、豪姫の娘を娶ることを許されたと言われている。
小田原の役や関ヶ原の戦いにおいても、前田軍の武将として従軍している。これらの戦功から、1万3000石の所領を与えられた。その後老齢のため、前田利長が隠居して前田利常が家督を継いだ頃に隠居している。しかし利常の従って1614年からの大坂の陣にも参戦し、19人の敵兵の首級を挙げるという武功を立てた。1625年に死去。享年72。
戦国時代における中条流の剣豪の一人であり、越後守の官位から「名人越後」と称されて恐れられた。