小寺弘之
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小寺 弘之(こでら ひろゆき、1940年10月3日 - )は群馬県知事である。群馬県前橋市在住。1991年7月28日に就任し、4期、13年目。
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[編集] 経歴
- 1940年10月3日 東京都に生まれる。
- 父は佐賀県、母は茨城県の出身。父の仕事の都合で生まれて間もなく台湾に移り、また東京に戻る。戦時中は茨城に疎開するが、終戦後東京に戻り小学校に入学する。しかし、小1の1学期までで東京を去り、函館,熊本,広島,名古屋と転居を繰り返し5つの小学校を経験する。中学も名古屋から芦屋に移り、高校は兵庫県立芦屋高校に入学するが高2の2学期に東京へ転居した。
- 1963年3月 東京大学法学部を卒業。自治省入省。
- 1968年4月 群馬県庁に出向、以後医務課長、企画課長、財政課長、秘書課長を歴任
- 1978年9月 群馬県総務部長就任
- 1982年10月 群馬県副知事就任。
- 1991年7月28日 群馬県知事に就任。以降4期当選。
[編集] 近年の話題
- 1996年群馬県の人口が200万人に達したのを記念して、群馬県出身の映画監督小栗康平に映画作成を依頼した。映画のタイトルは『眠る男』で、主演は役所広司であった。地元をロケ地として活用したご当地映画のはしりとなった。このような形で、自治体が文化活動にかかわる試みが斬新であり、話題となった。映画の内容は、山の事故で意識不明になった『眠る男』と彼を取り巻く自然や、そこで暮らす様々な人々の人間模様などが描かれている。この一連の取り組みは、「新時代の文化事業」「映画事業の革命」と非常に高い評価をうけ、国内外から絶賛された。その一方で、映画の内容が難解でなじみが持てないとか、自治体の行う事業としてふさわしいのかなどと、疑問を投げかける意見もきかれた。
- 1996年、群馬県知事を会長とする「アマゾンに群馬の森をつくる会」を発足させた。これは、ブラジル連邦共和国の在北伯群馬県人会(会長 岡島博)からの要請を受け、アマゾン流域の熱帯雨林を開発から守り保護するための活動を行うものである。広く一般県民や小中学生にも募金を呼びかけ、現地に540haの原生林を取得し、「アマゾン群馬の森」と名づけた。その後、ビジターセンターなどを建設し、関係者が植樹祭を行ったり、群馬県より緑の少年大使を派遣するなどの活動をしている。きわめて独創的な活動であるが、群馬県高崎市にある「群馬の森」(県立近代美術館・歴史博物館の施設がある)のブラジル版と誤解している人もあるなど、設立趣旨や実情をよく知らない県民も多い。
- 群馬県副知事に自治省出身で出納長をつとめる後藤新の選任を強く望んでいたが、後藤本人の人間性や偏向的な人事が多見されるなどとして、県議会の同意を得られずに副知事が2年以上にわたって不在であった。そこで、副知事を2人制にして、後藤を選任する案を再提案したが、これも恣意的であるとして県議会は否決した。小寺は、県議会の姿勢や、反対派の頭目とされる人物を名指しこそしないものの県議会の答弁の中で公然と批判した。副知事不在の長期化の弊害や批判を懸念して、2005年10月17日の県議会に、県総務担当理事の高木勉を副知事とする案を提出した。県議会は、全会一致で副知事2人制案を否決した上で、この案を承認して、副知事問題は一応の決着を見た。この問題の背景として、小寺が県知事選挙に出馬したさいに、衆議院議員の福田康夫に近いグループが対立候補を擁立したことが尾を引いた確執もとりざたされている。小寺の有力支援者の一人に元総理の中曽根康弘がいる。
- 子供相手の挨拶はいつも短い。例えば、いつも来賓として出席する群馬県中学校総合体育大会の開会式では「暑さに勝つ方法は何ですか?それは強い心です!以上、終わり!」といった具合である。聞き手にわかりやすく伝えるべきことを伝えるというポリシーからきていると思われる。短すぎて、かえって意図がわからないとか、聞き逃してしまう子どももいるのではないかなどと、批判的な意見も聞かれる。その一方、ほかの来賓の話が長く飽きていたのか、知事の話が終わった後、子供たちから自然に拍手が湧き上がる時もある。
- 2003年に、かねてより累積赤字をかかえていた高崎競馬を運営する群馬県競馬組合を清算する方針を打ち出したところ、新興のIT企業として話題をふりまいていたライブドアを経営する堀江貴文から買収の申し入れを受けた。競馬の廃止に反対していた競馬関係者たちの堀江に対する期待もあり、小寺は群馬県庁で堀江と会談した。ところが、会談時刻を一方的に変更したりするなど印象も悪かったばかりか、高崎競馬を買収後の計画の具体性、さらにはネットで馬券を販売するなどの手法が現行の制度上でも実現性に乏しいとの理由で完全に拒否した。ちなみに、現在高崎競馬場跡地では、中央競馬や他の地方競馬の一部馬券を場外販売している。
- 『愛県債』の発行という、全国的にも注目される方法で資金調達を行っている。一般職員からの提案をもとに、独自の地方債である『愛県債』を発行したところ、県民からの応募が殺到した。従来、金融機関に全額引き受けさせていた県債を一般県民に買いやすい額面金額や有利な利率で発行したところ、調達した資金が県立病院の充実に使われることなど目的が明瞭であり、県民に還元されるものであることが理解されて発行のたびに完全消化されている。2005年10月募集の『第5回愛県債』も総額30億円(額面は1万円・一人100万円まで・利率0.84%・期間5年)をすでに消化している。他の自治体でも、これにならって独自の地方債を発行するところもでてきている。
- 毎年元旦に開催される全日本実業団駅伝(群馬県主催、TBSテレビで放送)では、紋付羽織袴のいでたちで、自らスターターをつとめている。小寺はこのために日本陸上競技連盟公認審判員の資格を取得した。
[編集] 異常発言事件
- 毎年大晦日の群馬県庁でのカウントダウンイベントにゲストとして参加している。1月1日になった直後に新年の挨拶を行うのだが、ここでの異常な言動が群馬県内で話題となっている。
- 2005年には「今年は酉年だから、みんなで新年の一番鳥をやりましょう」と観客に呼びかけ、「みんなで一緒にコケコッコー!」と絶叫した。
- 2006年には、「今年はイヌ年、イヌはなんと鳴きますか?(会場に呼びかけ)」「ワンですね」「それじゃあみんなで一緒に言ってください」「群馬県はオンリーワン!、オンリーワン!」「群馬県はナンバーワン!、ナンバーワン!」と連呼。更には「ワンダフルワンダフルワンワンワン!、ワンワンワン!、ワンワンワン!」との意味不明なフレーズを、節ごとになぜかガッツポーズをつけながら絶叫した。この異様な発言には、会場に集まっていた多くの若者もひいてしまい、知事とともに唱和できたものは三分の一程度であった。また、壇上で隣にいた前橋市長の高木政夫はその信じがたい光景に顔が引きつり、その後の自分の挨拶は10秒ほどで終わりにしてしまった。
- このイベントは群馬テレビで生放送されており、この小寺の姿は全県に放映された。さらに、翌日の群馬テレビのニュースの中でも放送された。
- 2007年には、「イノシシはなんと鳴くか知ってますか?(会場に呼びかけ)」「(会場)知らなーい」「フガ!フゴ!(豚まねの感じで鼻を鳴らす)、あけましておめでとうと言いました」と言った。多くの若者はドン引きし、まばらな笑いが起こった。なお、この発言は翌日の群馬テレビのニュースの中ではカットされていた。
[編集] 関連事項
- 小渕恵三
- 小渕光平
- 中曽根弘文
- 都道府県知事
- 福田康夫(衆議院議員、前官房長官、旧群馬町出身)
- 中曽根康弘(元内閣総理大臣、高崎市出身)
- 清水聖義(しみずまさよし、太田市長)
- 松浦幸雄(まつうらゆきお、高崎市長)
- 高木政夫(たかぎまさお、前橋市長)
- 矢内一雄(やないいちお、伊勢崎市長)
- 大澤善隆(おおさわよしたか、桐生市長)
- 本仮屋ユイカ
- 入内島道隆
- 東京大学
[編集] 外部リンク
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