小山田氏
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小山田氏(おやまだし)は、桓武平氏秩父氏の一派。のちに甲斐の郡内地方(南北都留郡)の谷村を本拠に勢力を張った一族。中世に有重が武蔵国小山田荘(東京都町田市)を本領としたことに由来。居館は市内大泉寺に比定。
鎌倉時代初期に入府したと言われ、承久の乱においては甲斐から幕府方の東山道軍に加わっている。南北朝時代から室町時代以降にみられる甲斐の小山田氏とは同族とされるが、その経緯ははっきりしてはいない。甲斐国の守護で国中(甲府盆地)を治めた武田氏、富士川一帯の河内を治めた穴山氏とともに分立。武田家とは姻戚関係があり協調関係にあったが、永正5年(1508年)に武田信虎と叔父の信恵が対立した際には信恵方に加担し、信虎勢が郡内へ侵攻すると一時は伊豆へ逃れ、翌年に和睦している。天正2年(1533年)には甲府に屋敷を持ち武田への帰属を強めるが、外交関係などで一定の独立性は有していたといわれる。
戦国時代末期に武田氏が尾張の織田信長の侵攻(武田征伐)を受けると、小山田氏最後の当主信茂は武田勝頼の亡命を拒否し勢力の保全を図ったが、それまでの武田氏との密接な関係が災いし信長に不忠者として一族滅亡させられ、小山田氏は歴史からその姿を消すことになった。