小山田信茂
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小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代の武将。武田氏の家臣。
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時代 | 戦国時代 | |||
生誕 | 天文8年(1539年) | |||
死没 | 天正10年3月24日(1582年4月16日) | |||
別名 | 藤乙丸(幼名)、左兵衛尉、越前守(通称)、 信有(別名)? |
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主君 | 武田信玄→武田勝頼 | |||
氏族 | 小山田氏(関東平氏) | |||
父母 | 父:小山田信有(出羽守)。母:武田信縄の娘 | |||
兄弟 | 庶兄:小山田信有(弥三郎) |
目次 |
[編集] 生涯
[編集] 信玄時代
天文8年(1539年)、小山田出羽守の次男として生まれる。信玄の従兄弟に当たる。天文21年(1552年)に父が病死(信濃・常田の戦いで戦死説、その時の傷が元で後日死亡説有り)した後は異母兄(生母は地元家臣の娘か?)と推定される弥三郎信有が家督を継ぐが、永禄8年(1565年)に弥三郎が病死したために家督を継いだ。ただし、弥三郎が病弱であったために当主の職務を早くから代行していたとされ、後世において両者が混同されている。
弘治2年(1557年)の第3次川中島の戦いが初陣。 永禄12年(1569年)の小田原北条氏攻めでは、小田原城の支城である滝山城攻城戦の前哨戦で北条氏照軍を打ち破った(廿里古戦場)。元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦においても、12月の三方ヶ原の戦いで徳川軍の石川数正隊と戦い、武功を挙げた。
[編集] 勝頼時代
元亀4年(1573年)に信玄が死去すると、勝頼に仕えた。勝頼の下でも多くの戦いに参加している。天正6年(1578年)に武田家と北条家の同盟が破棄されると、北条氏の抑えを務めている。
天正10年(1582年)2月、織田信長の信濃・甲斐への侵攻(武田攻め)が始まると、武田勝頼に新府城から自分の居城である岩殿山城に逃れるように勧めた。しかし途中で裏切り、勝頼や嫡男の武田信勝らを郡内に入れず、結果的に滅亡へ追い込んだとされている(天目山の戦い)。
一方で、笹子峠から勝頼を攻撃したという事実は無いという説もある(笹子峠から攻撃したのは織田軍であるとも)。甲斐が平定された後、長男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、信長から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と咎められ、甲斐善光寺で処刑された。享年44。
娘が一人、勝頼の娘、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘の松姫に連れられ、武州(現・八王子)に落ち延び、松姫により育てられている。
[編集] 人物
- 信玄に従って数多の功績を挙げ、武田家中で随一の勇将・小山田と呼ばれた。
- 三方ヶ原の戦いにおいて、投石部隊を率いて戦端を切ったことが記されている。
[編集] 小山田氏の立場
[編集] 同盟者説
小山田氏は関東平氏の血を引く名門であり、信玄の父・武田信虎の時代である永正7年(1510年)までは武田家と争っていた。そのため、小山田氏の歴代当主は、武田家と縁戚関係を結んでいること、信虎との抗争終結後も建前上は降伏ではなく講和だったとされていることから、同盟者という説も否定できない。
小山田信茂は信玄の娘婿・木曽義昌や、武田氏の一族であり信玄の甥でもあり、尚且つ信玄の娘を妻としながら勝頼を裏切った穴山信君同様、その評判は山梨県内では芳しくない。しかし小山田氏は前述の通り、武田配下というより隷属的ではありながら同盟者の立場の国人だったのである。先述の北条氏より所領を得ていた事(但し小山田氏の出自が武蔵であったことから武蔵領についてのみ)、小山田領内には武田氏によって建てられた寺院等が少ない、小山田支配の郡内地方に武田氏発給の文書が全く無い事からも(但し富士講の参拝者に対する通行税への干渉はある)、それは確認できる。
当時の情勢を鑑みれば、国人領主としては至極当然の行動であった。小山田氏よりも先に裏切った、または消極的だった武田氏により近い血筋の人間(逍遥軒信綱、穴山梅雪等)も居たわけであり、歴史的な再評価が必要であると主張する者も存在する。
[編集] 家臣説
武田氏に母親を人質に差し出していたこと、勝頼を攻撃した真偽はわからずとも、結果的に「主君を裏切るとは不届き者である」という理由で、当人や男子のみならず、妻に母、娘までもが信長に処刑されていることから、寝返りについて、かなり咎められる立場にいたものと考えられ、武田氏の配下の枠に収まっていない立場の者への処遇としては考えづらい。
信茂自身も信玄の従兄弟に当たる存在で、外戚とはいえ武田家の親族衆であった。但し、与えられていた職責は譜代家老衆と同等の地位であった。この点を考えると、他家からは「武田家の家臣」と見なされていた可能性が大きい。
[編集] その他
戦国時代の武士団同士の関係を「同盟者」と「配下」の二類型に簡単に単純化できるかという疑義もある。