山中貞雄
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山中 貞雄(やまなか さだお、1909年11月8日 - 1938年9月17日)は日本の映画監督。京都生まれ(高知という説もあり)。
[編集] 来歴・人物
1927年、中学校の先輩であるマキノ正博(「日本映画の父」こと牧野省三の息子)を頼って、マキノ御室撮影所へ入社。マキノは活躍できるようにと1928年、山中を脚本家兼助監督として第一次嵐寛寿郎プロダクションに移籍させるが五社協定によりその年に独立プロは失敗。実家に戻った山中を親戚一同は縛り付けるように足を洗えと説得したが心中の灯は消えていなかった。
1930年、嵐が東亜に招かれると、山中を含む旧寛プロも参集。「むっつり右門」の脚本でその真価を確信した嵐は1932年、長谷川伸の戯曲を脚色した『磯の源太 抱寝の長脇差』を監督第一作として発表させる。この作品が映画評論家の岸松雄の目にとまり大絶賛されたことで注目が集まり、その結果、処女作にしてその年のベストテンに名を連ねるなど山中貞雄は日本映画界の巨匠の仲間入りをした。
翌年に、第二次寛プロから日活京都へ移籍。以降、若き天才監督の名前をほしいままに、『盤獄の一生』『街の入墨者』を発表。
また会社の枠組をこえ、稲垣浩、滝澤英輔や脚本家の八尋不二ら俊才とシナリオ集団「鳴滝組」を結成し、時代劇映画に大きな革新を生み、批評家以上に観衆からも大きな支持を得ていた。交友関係も広く、「鳴滝組」の面々のほか、伊藤大輔や伊丹万作ら京都の映画人はもとより、小津安二郎、清水宏など東京在住の映画人とも、幾度となく盃を交えた。
1937年、PCL(現在の東宝)で発表した『人情紙風船』を最後に従軍。翌年、中国河南省開封の病院で戦病死した。享年29。その短い生涯に発表した監督作品は二十三本。しかし、現在、『丹下左膳余話 百萬両の壺』『河内山宗俊』『人情紙風船』の三作品しか、正尺では見ることができない(ほかはフィルム断片のみ)。甥に映画監督の加藤泰がいる。山中貞雄ファンの有名人としては山下達郎、秋月りすがいる。
[編集] 外部リンク
- 山中 貞雄:作家別作品リスト(青空文庫)
- 山中貞雄を見よう!!(ファンサイト)