山口衛里
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山口 衛里(やまぐち えり、1973年1月14日 - )は兵庫県加東郡滝野町(現・加東市)出身の元女子マラソン選手。現在は天満屋陸上競技部でアドバイザーを務める。
兵庫県の西脇工業高校を卒業後、1991年ダイエー入社。ダイエー陸上部廃部にともない、1993年天満屋に入社、女子陸上競技部に所属。同部は、1992年に創部したばかりであった。天満屋の後輩には、2004年アテネオリンピック女子マラソン7位入賞の坂本直子らが所属している。
天満屋女子陸上部を率いる武冨豊の指導の下、フルマラソンで力を付け始める。初マラソンは1995年8月の北海道マラソンで、優勝した有森裕子に次いで、2:32:47のゴールタイムで2位に入って幸先の良いスタートを切り、将来性を期待されるようになった。2度目のマラソンとなる翌1996年1月の大阪国際女子マラソンでは、12位ながらも2:31:43と自己記録を更新した。
しかしその後スランプに陥る。一時は競技生活を辞める事も考えたが、1998年5月のトリノマラソンで3位(2:34:10)に入ったのをきっかけに復活。そして同年8月の北海道マラソンでは、2:27:36という当時の大会新記録で見事初優勝を果たした。しかし、期待された1999年1月の大阪国際女子マラソンではレース中盤で脱落、11位(2:32:15)と失敗に終わる。
2000年シドニーオリンピックの代表選考会だった1999年東京国際女子マラソンでは、選手生命を賭けてレースに出走する。スタート直後からひとりハイペースで飛ばした千葉真子に、山口は一瞬躊躇しながらも果敢についていった。レース前半は二人のデッドヒートが続き、その後15Km過ぎで千葉の方がズルズル遅れ、山口の独走へ。中間点を過ぎても山口は5Km毎16分台のペースで快走。終盤の延々続く登り坂では17分台のラップに落ちたものの、パワフルで力強い快調な走りは最後まで衰えなかった。そしてゴールタイムは2:22:12、当時日本女子歴代2位の驚異的な記録を達成、東京国際女子マラソンとしても大会新記録を出して優勝を果たした。この成績でシドニー五輪の女子マラソン代表に選ばれた(他女子マラソン代表選手は市橋有里、高橋尚子)。
そのシドニーオリンピック本番では、スタート直後から2位集団の先頭を走る積極的なレースを見せていたが、5Km過ぎの給水ポイントで他選手と接触し、転倒するというアクシデントを起こしてしまった。その影響があったのか、18Km付近でスパートした高橋尚子についていけずに遅れ初め、その後一時は20位前後まで下がってしまった(山口本人は「転倒のせいでは無い」と否定している)。しかし後半30Kmを過ぎてから持ち前の粘り強さが蘇り、前から落ちていく選手を一人一人拾って順位を上げた。そして競技場に入ってからも又一人抜き、結果ゴールタイムは2:27:03の7位に食い込んだ。同じ日本女子代表の高橋が優勝し、日本女子陸上界初の五輪金メダルを獲得したため、山口の7位入賞は影に隠れる形となったが、序盤の転倒という不運を乗り越えてのこの成績は大健闘だったと言える。(市橋有里は15位。)
シドニー五輪後は、足の故障等に悩まされ、満足に走れない日々が続いた。練習不足を承知で、2002年8月の北海道マラソンへ約2年ぶりのフルマラソン出走を決意したものの、2:39:35の7位と完走がやっとの状況で復活はならなかった。その後も故障が再発した為、2004年のアテネ出場への挑戦を断念。翌2005年2月、体力の限界を理由に惜しまれつつ現役引退を表明した。
2005年4月岡山県立大学短期大学部健康体育専攻に入学。
2007年1月14日の全国都道府県対抗女子駅伝競走大会では、第7中継所で8区を走る岡山県チームの中学生選手をサポート。 その様子がNHKのレポーターから紹介され、アナウンサーや解説の金哲彦氏に感嘆を交えながら語られた。 (中学生選手は粘りの走りで襷をつなぎ、9区浦田選手も好走し3着と同タイムながら先着し、岡山県チーム初の準優勝を成し遂げた)
2007年2月18日の第1回東京マラソンへ久々にフルマラソンを出走。3:13:28の36位だった。
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