山村工作隊
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山村工作隊(さんそんこうさくたい)は、1950年代、日本共産党の武装闘争を行った非公然組織。毛沢東の中国共産党が農村を拠点としているのに倣ったもの。
[編集] 歴史
レッドパージ後、中国に亡命した徳田球一らは軍事方針を指示する。1951年10月の第5回全国協議会(五全協)では「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな綱領「日本共産党の当面の要求」を採択し、「山村工作隊」「中核自衛隊」など非公然組織が作られた。
各地で列車を爆破したり、交番の焼き打ちや、警察官へのテロを敢行するなどの武装闘争が展開された。そして、共産党の武装闘争を取り締まるため破壊活動防止法が1952年7月に制定・施行された。直接的な火炎瓶闘争は1952年夏頃から下火になったが、軍事方針は続き、農村部での活動が継続された。
この運動方針は世論からも批判を浴び、1952年10月の総選挙では全員が落選し敗退。1955年7月の第6回全国協議会(六全協)で議会主義に転換し、軍事方針は否定された。
共産党の“正史”では「五全協の方針は一部の極左冒険主義者(所感派)による誤りで党本体(国際派)とは関係ない」とされている。
[編集] 球根栽培法
火炎瓶闘争など共産党の武装方針について示した秘密出版物。正しくは『内外評論』という機関誌であるが、『球根栽培法』は、これを擬装するための書名である。ガリ版で複数回発刊された。『戦後日本思想大系6 革命の思想』(筑摩書房、1969年)所収。
[編集] 参加者
共産党の方針に従い、学業を擲ち山村工作隊に参加した学生もいた。参加者は日本共産党第6回全国協議会の方針転換に深い絶望を味わったといわれる。また、これに参加した者の回想は、一部新左翼機関誌などに掲載されてもいる。(柴田翔の小説『されど われらが日々―』の背景に山村工作隊、日本共産党第6回全国協議会がある)