岩瀬順三
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岩瀬 順三(いわせ じゅんぞう 1933年5月19日 - 1986年5月18日)は、出版界の歴代鬼才ナンバーワンとも言われた出版事業家。実業家。
[編集] 経歴・人物
広島県尾道市出身。1958年立教大学英米文学科卒業。講談社は不合格となり、バーテンダーなどの仕事をする。1961年、28歳で業界紙の会社光琳書院に入社。翌1962年、60年安保闘争の総括で知られる清水幾太郎の紹介で青春出版社に入社。社員10名の編集長となる。野末陳平『3時間だけ楽しむ本』や『勘入門』などの大ヒットを出し一躍青春出版社の名を轟かせた。一攫千金の夢が強かった岩瀬は、この成功で銀座にバーを出したり有名女優を愛人にするなどの放蕩を始めたという。また賭け麻雀の負け方もハンパじゃなく凄かったらしい。会社社長との思想の違いから退社。
その後河出書房入社後、社長を務めたが倒産に遭い1967年、35歳のとき河出の子会社を独立させてKKベストセラーズを創立した。光文社の神吉晴夫が創刊した「カッパブックス」に対抗して、カッパを喰うワニを商標に「ワニブックス」を創刊。神吉が編み出した出版メソッドを更に進化させた。それは①出版社が企画を立て②著者を選び③著者と共に共同製作を行う出版プロデューサー的出版社・出版法である。この後のベストセラーの連発で他のマスコミや世間からはゴーストライターと強い批判を受けたが高度経済成長期の社会風潮を背景に、セックスや金儲けなど人間の根源的欲望に迫るハウツー物で次々とベストセラーを送り出し出版界の風雲児と謳われた。PL教団御木徳近の『愛―愛する愛に愛される愛』から始まり、ハウツーが流行語となった奈良林祥『How to sex』、藤田田『ユダヤの商法』(1977年)など。ゴーストライター批判がピークに達した江本孟紀の『プロ野球を10倍楽しく見る方法』(1982年)は220万部という記録的な売れ行きとなった。これはゴーストライターブームをつくったと言われその後、このテのタイトルと本作りは、他社にそっくり真似られ今は定着している。1980年の年間6位となったビートたけしに書かせた『ツービートのわっ毒ガスだ』は漫才ブームを起こす切っ掛けの一つとなった。1984年からは女性の顔にシャワーをかける表紙で有名な『ザ・ベストマガジン』『大人の特選街』など大人の雑誌群も揃えた。
野坂昭如を尊敬しよく行動を共にした。野坂昭如の『水虫魂』のモデルといわれている。キックボクシングに熱中した野坂の関係からか帝拳ボクシングジムのスポンサーになり、全日本高校フェザー級王者の実績を引っ下げ沖縄から上京した浜田剛史を公私に渡り可愛がった。野坂に「お前はもっと飲まなきゃダメだ」と言われて実行し肝臓は40代でボロボロになったといわれB型肝炎により52歳で早世した。
野坂から紹介された梶山季之、近藤啓太郎、吉行淳之介らとも親しく、吉行の小説や随筆に何度か登場している。岩瀬の手掛けたベストセラーは他に糸山英太郎『怪物商法』(1973年)、あのねのね『あのねのね』(1974年)、中村鉱一『やせる健康法』、馬場憲治『アクションカメラ術』(1981年)などがある。
[編集] 逸話
- ゴーストライターの存在は昔から出版界の暗黙の秘密であったが、広く公然化されたのはテレビ番組での岩瀬の発言による。1982年の秋、NHK教養セミナー「出版界最前線―ベストセラーを狙え」に出演した岩瀬が、当時ベストセラー第2位だった『プロ野球を10倍楽しく見る方法』を出版していた岩瀬にアナウンサーが、「この本も、原稿をまとめたのは、実は出版社だという話です」と言うと岩瀬はその時、サングラスの奥の目を細めて、「書いたか書かないかでなく、誰の本.....山口百恵の本、江本の本ということが重要だ」と前置きをして「ゴーストライターによってつくろうとも、なまじ本人が書いて拙い文章の本をつくるより、言わんとすることを正確に、より読みやすく面白く書いてもらったほうがいい。江本孟紀の書いた本を売っているのではなく、“江本の本”を出しているのだと判断してもらいたい」と発言した。(出典:戦後名編集者列伝、櫻井秀勲著)
[編集] 参考文献
- 戦後名編集者列伝、櫻井秀勲、編書房、2003年09月